苫米地理論は洗脳なのか?~洗脳の定義とは~

苫米地理論は洗脳なのか?~洗脳の定義とは~

「苫米地理論は洗脳なのか?」と疑問に思う方は、きっと少なくないでしょう。

洗脳に違いないという結論を出す前に、ちょっと待っていただきたいのです。

苫米地氏ご本人は、洗脳の専門家であると自らおっしゃっています。

これこそが、彼の理論が洗脳ではない1つの根拠であると思うのです。

私は詐欺の研究をしています

例えば家にやってきた人が、「私は詐欺の研究をしています」と言ったらどうでしょうか。

「この人は私に詐欺を仕掛けるつもりじゃないだろうか」と警戒する人が多いと思うんです。

つまり、洗脳するつもりの人が、「私は洗脳の専門家です」とは言わないということです。

騙す人間ってのは、「これから騙すかもしれません」ということは言いません。

当たり前ですね(笑)

よって、彼の本や理論については、洗脳であるとは言えない可能性がこの時点で高いのです。

まぁただ、「詐欺をする人間は最悪ですよね」という風に、自分は詐欺をしないことを暗に示す方法はありますけど。

他にも洗脳ではない根拠はいろいろあるので、もう少し深堀りをしてみましょう。

 

鵜呑みとは別

誰かに言われたことをほぼそのまま信じてしまう人が読者にいた場合にも、周りから見ると洗脳されているように見えます。

ただこれは、洗脳されたのではなく、自ら洗脳されにいっただけなのです。

鵜呑みとはこのことで、こればかりは苫米地博士にもどうしようもありません。

私が冗談で「神は赤色だ」と言い、それを鵜呑みにする人がいても、私にはどうしようもないのです(笑)

「カラスは赤色だ」といった場合なら、黒に訂正すれば話は済みます。

しかし、正解がないか、あったとしてもわからないことに対する仮説や予想、意見までもが鵜呑みにされたら、どうしようもありません。

信じないでください。鵜呑みにしないで下さいと言うことしか、できません。

 

洗脳とは何か

洗脳の定義があいまいだと、何でもかんでも洗脳になりかねないので、まずは定義を明確にします。

洗脳とは、「相手の意図に反して選択肢を削ぐこと」と定義してみます。

意図に反してってのがポイントです。

ですから、お互いに自覚しているかどうかは別問題です。

洗脳される側が自覚していなくても、結果的に状況の全容を知ったときに意図に反しているということであれば、洗脳というべきでしょう。

「お金がないとやばい」

「就職すれば安定で幸せ」

こういった世間の意見を刷り込まれていることが洗脳なのも、今回の定義と整合性があります。

恐怖を利用した洗脳や、相手に気づかせない洗脳も、この定義に該当しますね。

全知になったとき、洗脳と思えるならそれは洗脳ということです。

相手に洗脳する意図があることを知ったり、資本主義は1つの社会体制でしかないことを存分に知れば、洗脳と気づくことが1つの例です。

 

教育はどうなのか

教育は基本的に、選択肢を削ぐわけではありませんので、洗脳ではありません。

まぁ反日教育とかはそうかもしれませんが。

学問を忠実に教えることは純粋な教育です。

なぜなら、単純に選択肢を広げるからですね。

就職する生き方と、起業する生き方を教えるだけなら、純粋に選択肢を広げるので無問題というわけです。

しかし、就職する生き方じゃないとダメ、就職しないと幸せになれないというのは明らかに洗脳です。

 

本だけで騙せるか?

では、苫米地氏のしていることはどうでしょうか。

本を多く出していますが、そもそも本だけで洗脳できるでしょうか?

考えてみてください。

不可能ではないでしょう。

しかし、冷静に考えてみればかなり困難であると思いませんか?

もし彼の本が洗脳であるなら、この世のものすべてが洗脳になります(笑)

本を読むだけで、洗脳されているとは言いません。

 

 信じるとは別

もし読書で洗脳になるなら、

「わたしは山田太郎です」

という自己紹介だって、相手を洗脳していることになります。

もちろんこれはおかしいですね。

「ああ、彼は山田太郎なんだ」と信じたとしても、それは洗脳されているわけではありません。

「信じる」と、「洗脳される」は別物です。

なぜなら、信じるときは、疑うこともできるからです。

「彼は偽名かもしれない」

と疑うことができます。

疑おうと思えば、疑えます。

そうですよね?

 

常に疑ってたらキリがないので、現実的には必要になった時に疑う程度でいいでしょう。

一方で洗脳されてる状態は、疑うことができません。

すなわち、疑うという選択肢が削がれている状態です。

ここがすごく大きい違いですね。

もう滅茶苦茶大きすぎてやばいほどの違いです。

私たちは子供のころに、それは違うんじゃないかと親に疑問を呈します。

しかし、一蹴されてきて、いつのまにかそれが事実なんだと刷り込まれてしまっているんです。

そこから解放しようとしている著者は、もはや脱洗脳の領域です。

よって、彼の本を読んで信じているだけの状態を、洗脳されているとは到底いいません。

 

オウム返し

洗脳という単語を出すだけで、「それこそ洗脳だ!」って言い出す人はけっこういるように思えます。

ちなみにこれはパブロフの犬みたいに、条件反射になっているだけでしょうね。

苫米地理論に対しても、同じような現象が見受けられます。

まぁこれ、宗教とかで洗脳されている信者も言うんですけどね。

もちろん洗脳という指摘が、洗脳である可能性は常にあります。

しかしだからといって「それこそ洗脳だ」「苫米地も洗脳だ」という風に返すことは、すべてが洗脳というあまりにもナンセンスな認識でしかありません。

何かを発言したとしても、それが洗脳とは限りません。

常に疑うべきだとは思いますが、それはすべてが洗脳という意味では全くありません。

洗脳と非洗脳があり、その区別をつけるために疑うのです。

それに、ひとまず信じるという行為や、保留にしておくこともしていいわけですから。

よくわからないまま、洗脳だの洗脳じゃないだの、結論を出すべきではありません。

十分調べ、十分考え、経験則も含めて、検討するべきでしょう。

 

自覚はない

なんでもそうですが、信者って洗脳されているように見えます。

ですから、彼の信者を見ていると、苫米地氏が洗脳しているように見えてしまうのも致し方ありません。

しかしながら、洗脳されている人が、「わたしは洗脳されているかも」とは言わないんですよ。

 

「やりたくないことをしなければならない」

という考えに洗脳されている人に、あなた洗脳されていますよと指摘しても、「それこそ洗脳だ」といわれるのがオチです(笑)

洗脳されている人ってのは、それが事実であると思っています。

そういう認識状態なんです。

解釈ではなく、事実だと思っています。

ですから、自分が洗脳されているなんて思いもしません。

洗脳の余地がないように錯覚しているからです。

「この世に空気がある」というのは解釈ですから洗脳になり得るんですが、事実であるとも認識できます。

私たちはこれが洗脳とは思いませんよね。

おそらくこれと同じような感じで、事実と認識してしまっているのでしょう。

 

実際に宗教的な体験談を見ていればほぼこの通りかと思います。

宗教団体に何百万も納付している人に、もし洗脳されていると指摘しようものなら、笑われるでしょう。

むしろ、こちらが洗脳されているとまで言われかねません。

 

ですから、「俺って苫米地に洗脳されてるかも・・・?」という人は、まだ余裕です(笑)

洗脳されることと、依存することは根本的に別です。

以上より、苫米地氏のしていることは、洗脳ではないといえるでしょう。

なぜなら、彼の話は選択肢を削ぐわけではなく、強制もしていないからです。

また、私たちは彼に洗脳されるのではないかと身構え、警戒し、疑えるからです。

純粋に選択肢を広げるものでしかありません。

もちろん疑うことを放棄することは、各人の自由ですが、苫米地氏はこれを明確に否定しています。

ここも非常に重要なポイントですね。

よく疑えと言っていますが、これは当然ご本人の著書も含まれていますよ。

 

もちろん苫米地博士の言う、会社員の生き方がダメだとか、奴隷に過ぎないという部分は事実というよりは著者なりの認識ですが。

洗脳されている人は、会社員は奴隷ではないとか本気で思っているので、苫米地氏なりに脱洗脳しようとしているんじゃないかなと。

会社員が奴隷ではないというのも、ちょっとムリがありますしね。

もちろんまともな会社であれば、そうではないかもしれません。

ただそれは、資本主義に染まっていないことが必要で、そこまでの会社はなかなかないんじゃないかなと。

 

さて、では依存は洗脳されている状態、信者とはどう違うのでしょうか。

大抵の信者は、依存だと思います。

 

依存

「信じる」という状態から、依存に変わっています。

彼は山田太郎なのだと、ひとまず信じている状態がまずあります。

そこから、それは彼の本名に違いないという状態になります。

これはつまり、盲目的に信じているんです。

疑うことを放棄した状態です。

なにせ、山田太郎であることを100%本当だと信じることは、今後の発言も同様に無条件で受け入れることになります。

これが依存です。

無条件で受け入れることは、要するに依存ということです。

そうですよね?

 

この依存は、ゆだねるというと聞こえがいいですが、主体性を失います。

「あの人がなんとかしてくれる」と完全に人に依存します。

自分から何かを変えようとするのではなく、誰かに変えてもらおうとするんです。

「あの人ならきっと、わたしの人生を導いてくれる」と強い希望と期待を持つわけです。

でも、氏は何度も言っていることですが、自分で人生を切り開かないといけません。

ですから、助けてくれるわけではないんです。

 

しかしこれが、依存している人にとっては裏切りに感じます。

すると、突然手のひらを返し、アンチになるわけです。

憎しみは依存の裏返しなんです。

憎くても許すのが愛ですよ。

というか愛があるなら憎しみという感情は、抱かないはずなんですけどね。

 

もしかして・・・依存してるかも?

もし依存の状態であるようなら、まずは依存していることを自覚しましょう。

私は彼に依存しているのだと。

そうでなければ、いつか彼を恨むことになりかねません。

なにせ主体性を失った状態では、人生が変わることはほぼないというか、完全に運や環境次第になってしまうからです。

「私は彼に依存している」という自覚は、主体性を取り戻す始まりです。

自覚という作用は、私は主体性の根幹だと思っています。

 

なぜ依存してしまうのか

私たちは、なぜ依存してしまうのでしょうか。

成功しなければならないと洗脳されているから?

成功できないかもしれないという恐怖があるからでしょうか。

あるいは、何者かにならなければという焦りがあるから?

人によって理由はいろいろあるでしょう。

いずれにしても、こういった心の動きを観察します。

なぜ観察するかというと、これらの感情によって実質的には、洗脳されている状態に近い依存になりかねないからです。

洗脳に最も適している感情は恐怖ですよね。

私たちは自ら恐怖を抱いてしまう

問題は、苫米地氏は煽っていなくても、読者自らが将来に恐怖を抱いてしまいがちな点です。

彼の話は、むしろその恐怖から解放してくれる話なのですが、恐怖があるからこそ冷静に読めないという問題があるんです。

しかし、これらの感情と苫米地理論は、本来関係がないわけです。

ですから、しっかりと観察することが必要になるわけです。

そして情報に対する疑いを持ちます。

これは主体性がなければできません。

「私は将来にもやもやとした恐怖を感じている」

「私は今苫米地博士の本を読んでいる」

自覚をして分離すると、自覚をしないよりは別々に認識できるはずです。

 

そうすれば、今の感情と、本の内容は無関係であることを、知識だけでなく、実感することができると思うんです。

将来のことを思うと不安で、恐怖を感じます。

でもそれが、著者の話を全て鵜呑みにするべき根拠には、ならないということです。

確かに著者の話は、洗脳ではないと思います。

しかし依存をするのであれば、それは洗脳されているも同然です。

それにもう一度言いますが、苫米地氏は依存の状態を明確に否定しています。

冷静に読めている人ならおわかりでしょうが、氏は自分の話が無条件で受け入れられると思って書いていません。

だから、データや根拠をだしています。

まぁ一般的には不十分かもしれませんが^^;

半分自慢話に感じられるかもですが、一種の根拠という意味もあるのでしょう。

 

ですから私たちは、自ら人生を切り開くつもりで、苫米地博士の著書にあたるべきだと思うんです。

彼の話で”納得できること”はひとまず信じつつ、主体性をもってどうするか考えていく感じです。

納得できないところやあやしいと思ったところは、自分なりに調べ考察していきましょう。

少なくともセミナーに参加すれば、人生が変わると思うのは、非常に危険です。

あくまで人生を変えるのは自分自身です。

それに苫米地博士は、1回のセミナーに参加した程度では身につかないと明確に否定しています。

 

セミナーに参加する前に

若干脱線しますが、折角なのでセミナー参加の前に注意したほうがいいと思う話をします。

苫米地理論は一言でムリヤリまとめることができます。

それが何かわかりますか?

もはや抽象度とか考えなくていいですよ(笑)

 

結論はこれ

苫米地理論でムリヤリ結論をだすとこれです。

「やりたいことをやれ」

セミナーに参加したいという気持ちが、本物であることは承知しています。

ですが彼の話はそういう意味ではなく、心の底からやりたいことをやることのはずです。

セミナーでは技術を習得することはきっとできるのでしょう。

気功とか、催眠とか、無意識の力の使い方とか。

でもセミナーで、やりたいことを見つけることは基本的にできないはずです。

 

先にするべきことは何か

本質的には、彼の理論を実践するのにセミナーは関係ありません。

あくまで物凄く本質的にはですよ。

というのもやりたいことがなければ、そもそも彼の理論はあまり役に立たないからです。

エフィカシーを上げるのも、ゴールの設定も、利他的に行動するのも、やりたいことがないと始まらず、継続できません。

実力もなく、行動すらしないのに、エフィカシーが上がるなんてことはなかなかないでしょう。

やりたいことがあれば行動して、実力が身につき、利他的なことも自然とするようになるでしょう。

ちなみに抽象化思考トレーニングなど、やるだけですごく意味があるものもありますけどね。

というか抽象的な思考は、苫米地博士のやりたいことの1つなんじゃないかなとも思います。

私も抽象的な思考はすごく好きですけど。

 

 

やりたいことというのは、毎日4時間以上は、少し疲れていてもやっているはずのことです。

無意識的に実践しています。

イチロー選手が小学生のころ、毎日学校が終わって家に帰ったらバットで素振りをしていたように。

あるいは苫米地博士みたいに、ギターを弾くのが楽しすぎて、つい時間を忘れて練習してしまうように。

 

セミナーに参加する前に、やりたいことを見つけるのが先ではないかと思うのです。

もちろん参加したことがきっかけで、見つかる人もいるでしょう。

そのまま気功師になったり、コーチになる人もいるようですから。

お金に困ってないなら、試しに参加してみるのも手でしょう。

しかしかなりのムリをして参加することは、やめたほうがいいと思うのです。

きっといずれ、裏切られたように感じてしまいますから。