適応しないという生き方にも強さはあることを発見したお話

適応しないという生き方にも強さはあることを発見したお話

適応することにだけメリットがあるわけじゃない

私はもともと、適応しないことのメリットを理解していたつもりです。

それでも、”適応しなければ”という焦りがありました。

気づいたら適応しないという生き方を貫いていました。

ただその生き方でも、意外と強さを持てることがわかりました。

貫こうと思ったわけではなく、何となくたまたま適応しないという生き方になっただけですけどね。

ただ、意外と適応していない人はいますので、そのことにも触れます。

 

適応しないことによって知性が身につくという説

人間の知性は、適応を遅らせることによって身につくという説があります。

人間の赤ちゃんは、ほかの動物に比べるとあまりにも手がかかりすぎです。

また、あまりにも成長に必要な時間が長すぎます。

これはあえて適応をしない方向、すなわち適応を遅らせることによって知性を身に着けていると考える説があります。

このように適応しないということに、科学的な観点から言っても意味はありそうなんです。

これは適応しないことにもメリットがあると思える人には、わりと納得していただける部分があると思うのですが。

別の言い方をすれば、適応しないことによって伸びしろが出てくる、または維持される感じです。

 

実は創造力の源にもなり得る

適応しないことによって、創造性がもたらされる部分があります。

例えば戦争が当たり前の時代に、1人だけ戦争はおかしいと思っている人間がいたとしましょう。

しかしこの人が適応してしまったら、誰もが戦争は当たり前だと思ったままです。

適応しないままこの人が生きて、「戦争は異常だ」ということを訴え続ければどうでしょうか。

それに賛同する人が増えていき、ようやく戦争はすべきじゃないという社会に変わる可能性が生じます。

新しいこと、創造的なことというのは、適応しない部分があるからこそ生じます。

今までの繰り返しと同じなら、そこに創造性はありませんからね。

 

適応しないことによる内的世界の構築(主に内向型)

適応するとは外の世界に適応するということですよね。

では適応しないまま生きていったら、どうなるでしょうか。

まぁこれは人によるのですが、すなわち自分の世界というものを構築していくことになります。

社会がまともなら、適応すればいいのです。

他人に言われた通りに従って、生きていっても幸せでしょう。

しかし社会が異常だったり、あるいは合わないなら、適応しない生き方をするのは1つの手段です。

独自の世界が魅力的な価値をもつことも少なくない

この内的で独自な世界というのは、クリエイターに多いです。

マンガなどは典型例ですね。

人の数だけマンガがあると言ってもいいぐらい、いろいろなマンガあります。

例え似ていても、まったく同じにはなり得ません。

特に独自性の強い世界だと、強い魅力を感じる人も出てきますからね。

その分好き嫌いははっきり分かれやすくなりそうですが。

例えばワンピース

例えば少年ジャンプで連載されているワンピースは、尾田さんにしか描けないと思うわけです

鳥山さんのドラゴンボールなど、ほかにもたくさんありますね。

面白いかどうか、魅力に感じるかどうかは別にしても、内的な独自の世界は時に強い魅力を持つ一例です。

ニッチなものもたくさんあります。

例えば私は、RPG風のマンガでチート級の快感があるものとか好きです(笑)

当サイトも世界の表現

ちなみにこのサイトも、私の内的な?世界を表現する場でもあります。

私はこの世に存在する自己啓発や方法論、学問などすべては、人生の戦略と戦術と本質という視点で触れています。

というかこれから意識的にどんどん触れていきます。

今まではなんとなくなだけでしたが、むしろこの内的世界は魅力になるのではないかと思ったので強く意識していこうと思いました。

その感じている世界を表現するのが、この場なわけです。

この生き方も自己責任

もちろん自己責任なのは言うまでもありませんが、そもそも人生は最初から自己責任ですからね。

逆に言うと誰かが助けてくれるなら、それはその人が自己責任で助けてくれているので、大いに助けてもらえばいいと思います。

結局助け合いでもあります。

でもいつでも誰かが助けることができるとは限りません。

適応した生き方をしてもやはり自己責任ですが、ただそのほうが社会的には安定とされていますね。

意外と適応していない人はいる

ちなみに社会で活躍している人も、意外と適応していない人はいます。

マナーがなってないとか、遅刻が多いとかいろいろありますけど。

基本的に自然体でいる人は、あまり適応していない人たちです。

究極的にはメンタルさえ強力なら、適応しないでいられるのかもしませんね。

ただ適応しないというのは、能力を発揮するために必要なようにも思えます。

もちろんただの怠慢というケースもあるでしょうけど。

能力がある人が適応しないないことについては、必要なことかもしれないので安易に判断はしないほうがいいと思うのです。

能力もけっこう重要

例えば理不尽なことを要求されても、かわすスキルがあれば適応しないでいられます。

ほかにも何でもいいですが、根回しをしておくとか、感情を落ち着かせられるとか、交渉能力など。

いろいろなスキルの使い方で、適応しないでいられる可能性は高まるでしょう。

能力とはむしろ、適応しないために必要という見方もできます。

仕事さえできていれば、書類仕事が雑でも許されるみたいな感じですね。

まぁ時代にもより、その組織にもよるでしょうけど。

いじめられている人などに選択肢としては十分にあり

いじめの問題が話題になったとき、1つ目にとまった話題がありました。

それは、いじめられた人が逃げるのはいいが、その先についても責任をもって論じるべきであるというものです。

ただこれは的外れでして、そもそも最初から人生は自己責任なので、自分で決めていくべきものです。

もう1つ、自己責任という論理とは、他人の人生の一部は自分にも責任があるということです。

すなわち、自己責任の論理に従って、責任があると思っているから逃げてもいいと助言を書いている側面があります。

もちろん別途助けを求められたら、できる範囲で協力すればそれでいいわけですが。

これらを踏まえた上で話を進めますが、私は適応しないという生き方は1つの選択肢としてありだと思っています。

いじめられたり、全体的に学校が合わないとか、全体的に社会が合わないなら、1つの手です。

徹底的に環境を選ぶ生き方

一方で、この環境が合わないだけとか、こういう仕事がしたいとか、システムがまともであれば大丈夫とか、条件さえ満たせばやっていけることもあると思います。

その場合、自分が活躍できる環境を徹底的に選ぶという生き方もあります。

例えば友達なら、理解してくれるような人を徹底的に選ぶという生き方です。

もちろんその場合は、一般的なやり方で仕事はできませんので、働き方に制限がかかりますが。

あるいは仕事は仕事で割り切るとかすれば大丈夫ですかね。

いろいろ戦術、戦略はありますから、組み合わせは自由です。

いずれにしろ、徹底的に選ぶという生き方もあるという話で、これはこれであまり適応しない方向性だと思います。

 

適応したその先がある

一方で適応したからと言って、創造性を失うわけではありません。

もちろん適応した部分に関しては一時的に失います。

ただ、適応したとしても慣れてきて、いずれは適応をやめる余地が出てきます。

これは例えばどこかの宗教に洗脳された信者が、いつまでも洗脳されたままでいるとは限らないということです。

いずれは洗脳が解けることもあるように、いずれは適応をやめることもあり得ます。

守破離による成長

特に技術的なことについては、守破離でいずれその先に進めます。

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守破離とは

まず型通りの動きを完璧にできる状態(守)

その次にアレンジや改善をすることができる状態(破)

ほぼ型を離れ新しいものを作るなどその先に進んでいる状態(離)

を意味するものです。いずれは師匠を離れ自らオリジナルのもの(武道の流派など)を作るということですね。

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わけわからんルールとかは、適応してしまうことによるデメリットのほうが大きい気がします。

ただ、適応してしまったとしても、いずれは適応をやめることができるのではないかと思います。

人間は常に何らかの成長はすることができると思うので。

どっちにしろ主体性は必要

結局のところ、適応しないにせよ適応するにせよ、主体性は必要なのだと思います。

人の言いなりになっても、ならなくてもいいですが、それらは主体的をもとにしているべきなのでしょう。

それこそが人生の戦略と戦術という観点の本質だと思うのです。

 

まとめ

というわけで、今回は適応しないという生き方にも強さ、魅力、メリットはあるよというお話でした。

主体性が大事ですし、主体性を積み重ねていくから、自分独自の内的世界を構築できます。

この特性は、たぶん内向型じゃないかと思うんですけどね。

また、適応しないとしても、何に適応して何に適応しないか、どの程度適応してどの程度適応しないかは、(本来)自由です。

この境界線が自分の軸とも言えますね。