卵が先か鶏が先か?思考による本質の見極め方とアイディアによる二元論からの脱却

卵が先か鶏が先か?思考による本質の見極め方とアイディアによる二元論からの脱却

卵が先か鶏が先かという二元論を例に、二元論にとらわれないとはどういうことかを書いてみます。

私は中高生のころ、卵が先と考えていました。

別の鳥が卵を産み、そこから鶏が生まれたと考えたわけですね。

 

二元論にとらわれるべきでないとしながら、鶏が先とか卵が先とか結論を出しているケースがあります。

ですがこの問題にとらわれることこそ、二元論にとらわれています。

そもそも結論出している時点でとらわれてますからね。

現実には、どっちが先でも私はおかしくないと思っています。

そもそもどっちが先かは問題ではありません。

物質的な関係性の都合で決まるのではないでしょうか。

卵のほうが進化しやすかったとか、鶏の内部から徐々に進化したとか。

 

根本的には二元論にとらわれることと、科学的な真実は関係ないんですけどね。

ですが折角なので、このあたりを明らかにしてみましょう。

問題の本質をとらえることは有用ですし、そのための思考や視野拡大なども深堀してみます。

 

問題発見や問い方が一番難しい

問題を発見することこそ難しく、発見した時点でたいていは解決法も見つかると一部では言われます。

私もまさにそう思っています。

はっきり言ってしまえば、「卵が先か鶏が先か」という問題定義がナンセンスです。

あまり意味のない問題ですね。

なぜならこれは、科学的な証明を待つしか手立てがないからです。

この問題の本質はどこにあるでしょうか?

進化がいつ起きたのか?が本質

重要なことは、「進化がいつ起きたのか?」です。

これが問題の本質なんですね。

1.)卵を産む前に進化が起きたのか?

2.)卵を産む時に卵だけに進化が起きたのか?(この場合は卵が先)

3.)卵を産んだ後(卵から生まれた鳥)に進化が起きたのか?(結局は1と同じ)

卵を産む前に進化が起きた場合

卵を産む前に進化が起きているという話を進めます。

この考え方の場合、鳥本体の中で進化が起きています。

その鳥自身には肉体的な進化の影響はないかもしれません。

しかし遺伝子に大きな変更を加えて、卵を産むわけですよね。

つまり、鳥の中で進化が起きなければ、その卵にも進化は起きません。

鳥自身に影響はなくても、遺伝子の変更は鳥の中で行いますから。

そもそも遺伝子の変更は、その鳥の生きているデータの集積によって実現します。

よって、少なくとも関わりがあることは間違いないでしょう。

情報の進化が先

要するに情報的な進化がまず先にあり、それが卵に反映されているということです。

これはすなわち、卵が先とも、鶏が先とも言えます。

むしろ、どっちが先かなんて無意味という結論のほうが近いですね。

どっちが先でもおかしくないわけです。

鳥本体が突然変異して(進化して)、鶏になってもおかしくないですし、卵が先でもおかしくありません。

でも肉体的な変化ってのは、大人なら実感あると思いますが、かなりきついでしょう。

負担もありますし、細胞もたくさん変化しないといけないですし、設計を変えるとバランスが崩れたりするかもしれないわけです。

理論上可能だけど、負担が大きすぎるから肉体的な進化はしないだけかもしれないんですよね。

まぁこの辺は科学的な証明待ちですが、そもそも問題の本質はそこではなく。

問題の本質は「いつ進化が起きたのか?」です。

その暫定の答えや考え方の一例として、情報の進化が先にあり、それは情報空間で起こっているという視点を提唱しました。

これは二元論を超越しているんです。

どっちが先でも問題ない

二元論を超越していると判定できる根拠は、どっちが先でも問題ないからです。

鶏が先か卵が先かなど、どうでもいい問題になるわけです。

これは二元論にとらわれていないから可能になることです。

情報の進化が先であるなら、それが起こるのは卵だろうが鳥だろうが問題になりません。

どっちが先であっても、問題ありません。

現実的には卵が先かもしれません。

しかしその前に、情報の進化が起きているのではないかということです。

その場合、卵が先とか鶏が先とか意味がありません。

つまりより的確な問題提起は、「情報的な進化はいつ起きたのか?肉体的な進化はどのようにして発現したのか?」です。

もちろんこれは、新たな二元論にとらわれることになります。

ただ抽象度が違いますね。

物質的な卵と鶏という二元論から、情報と物質という抽象度が上がった別の二元論に移動しています。

同時も1つの視点

「いつ進化が起きたのか?」という本質的問題について言えば、「同時」も1つの結論だと思います。

科学的に考えればむしろ当然の結論に思えます。

なにせまず進化が起きてから、肉体が変化して鶏になるか、あるいは卵を産むわけですから。

情報的な進化が先ですが、私たちには物質的な変化しか見えないだけかもしれないのです。

情報空間においては、鶏と鶏の卵に区別なんてありません。

ある鳥から鶏という種に情報的に進化したならその瞬間、卵も鶏も鶏という種です。

どちらも同じもので、同じ遺伝情報の延長線上です。

鳥の中で情報の進化が起きてから、ようやく肉体や卵にどう落とし込むかを計画するのではないでしょうか。

こう考えれば、情報の進化から物質への反映まで、タイムラグがあるのは当然ですね。

そういう意味ではより本質的な問いは、「情報的な進化はどのようにして生じるのか?」です。

これが本質的な問題ですし、ここを具体的に解明できたらそれはまぁすごいことでしょう。

卵を産んだ後の可能性

すべての鳥は、産まれた卵から誕生したわけですから、卵を産んだ後にも進化は起きています。

常に遺伝子は、変化の可能性を探っていると私は考えています。

そう考えれば、どっちが先かなど極めてどうでもいい問題です。

常に成長しているという意味では、常に進化し続けているとも言えますからね。

二元論からの脱却としては、この視点/視野も一つの例です。

 

二元論からの脱却とは

二元論からの脱却とは、そもそもアウフヘーベンのことを意味します。

これは対立している2つの事柄AとBから、AでもBでもない第三の結論にたどり着くことを意味します。

そのためには、視点移動が必要不可欠です。

視野の拡大は副産物で、本質は視点移動にあります。

「卵が先か鶏が先か」という問題においてはどうでしょうか。

結論を出す前に、前提を確認する必要があります。

この問題は、そもそもどちらからも進化可能でなければ、卵も鶏も存在不可能です。

卵が先であったとしても、この問題は解決しません。

卵が先の問題点

卵が先の場合、鳥類の始まりも卵でなければいけません。

ここがとても大きな問題点です。

そもそも卵が先という考え方そのものも、視野狭窄に思えますけどね。

鶏の卵は別の鳥が産み、その鳥の卵はさらにまた別の鳥が産んだわけですよね。

なるほど、それは確かにわかりやすいです。

しかしこれを繰り返してさかのぼっていくと、困ったことになります。

最初の鳥の卵は誰が産んだのでしょうか。

鳥ではない別の生物が産んだのでしょうか。

ではその別の生物の祖先が生まれた卵は、誰が産んだのでしょうか。

その生物も卵を産むわけですから、卵から生まれたと考えられます。

最初に卵を産んだ生物は、どうやって生まれたのでしょうか。

卵ではなく哺乳類のように生まれたのでしょうか。

そこまでいくと、もはや人間が鳥の卵を産んでもおかしくないという結論にまで至りかねません(笑)

もちろん科学的には、実際別の生物が産んだのかもしれませんよ。

あと言うまでもないことではありますが、鶏が先でも同じ問題があります。

二元論の限界

ただ論点は、これこそまさに二元論の限界であり、科学的な証明や、絶対的な何かを求めるしかなくなります。

なぜなら二元論は基本的に、どちらも必要でどちらにも関係があるものだからです。

共依存状態ですね。

切っても切れません。

ですから、どちらかだけに断定することができません。

卵が産出されるために、鳥が必要なのは明らかなので、どちらが先かというのはそもそも意味がなさそうです。

卵が先とか鶏が先とかとらわれてしまっている時点で、二元論に束縛されています。

二元論からの脱却とは、科学的な証明や絶対的な何かを求めずに、視点を移動させて解決を試みるものです。

私はこの問題については、どちらも先になったり、後になったりするものだと考えたから、情報の進化が先という視点に至っています。

もちろん視点移動をするわけですから、最初の問題が丸ごと変わります。

視点を移動するとは、問題の捉え方を変えることでもありますからね。

視点を変えることで、そもそも問題じゃないという考え方になることが多いかもしれません。

第三の視点

「卵が先か鶏が先か」問題に、情報の進化という視点を取り入れたわけです。

これは卵が先でも鶏が先でも成立しますから、”二元論を超越した”結論です。

もちろん科学的に本当にそうなのかは、検証する必要がありますけど。

思考としては、二元論を超越しているわけです。

これが第三の視点の一例です。

あくまで思考として二元論を1段階超越しているだけで、事実であることは全く保証されていないため、この点には注意が必要です。

「卵が先か鶏が先か」問題に、卵が先とか鶏が先とか結論を出したなら、結局それは二元論にとらわれているわけです。

思考法と視野拡大と本質の見極め方

当サイトは人生の戦略と戦術を扱うサイトですから、むしろここからが本題とも言えます。

人生において、視野拡大や問題の本質を見極めることは、もちろん有用です。

そのための思考法を、深堀してみます。

今回は、二元論という枠組みが前提ですけどね。

二元論に陥ったとき、私たちはどうするべきでしょうか。

結論を出すことも思考停止

卵が先とか鶏が先とか、結論を出すことも一種の思考停止です。

というかあらゆる思考が、思考停止への落とし穴になる可能性があると私は思います。

それは結局、結論を出すと思考停止になりやすいです。

二元論にハマること自体が、思考停止になる可能性もあります。

先行きが見えないと、思考しようがなくなり、思考が停止してしまうからです。

ただ、そもそも思考停止が悪いわけではないという前提もあります。

思考停止が悪いというのも、そもそも二元論にとらわれていますからね。

というかこうして述べていくだけでも、たくさんの二元論前提の話がでてきます。

二元論そのものまたは二元論にとらわれることが、いいとか悪いとかも二元論ですし。

アウフヘーベンのやり方

こういった二元論から脱却するにはどうしたらいいでしょうか。

そのためにはアウフヘーベンを実行していくわけですが、結論を出さないでいられるかが重要です。

AとBという対立において、Aという結論やBという結論に至ることは、二元論にとらわれていますから。

第三の視点を獲得するためには、まずはそういった結論を出さないことです。

AでもなくBでもないという状態でいて、初めて第三の視点獲得の可能性が生じます。

そこから先は、もちろん対立する内容によって異なります。

ここがアイディアの部分ですね。

創造的な価値が含まれている

第三の視点とは、アイディアのことです。

今回の例では情報の進化という視点が、第三の視点であり、アイディアの部分です。

そもそもどっちでもいいのでは?という視点をまず維持するわけです。

言い換えれば、二元論にとらわれない状態ですね。

しかしこれだけでは第三の視点は獲得できません。

そこから情報の進化という視点を思いついて、ようやく第三の視点に移動できます。

これにより、二元論からの脱却が可能となります。

二元論にとらわれない状態というのは、瞑想とか、冷静な認識に相当する部分ですね。

第三の視点はそのとらわれない状態から生じるアイディアのことです。

今回におけるその本質的な視点移動とは、物理空間から情報空間へ移行したことによるものです。

アイディアの部分は、一見無関係なもの同士から、関係を見出すことと言ってもいいです。

再び二元論が顔を出す

二元論から脱却しても、また新たな二元論にとらわれることは、日常茶飯事です。

ですから常に認識に注意を払い、自覚することが重要になってきます。

二元論にとらわれた問題に遭遇したら、まずはとらわれない状態を維持します。

維持することができれば、新たな視点を獲得する可能性が高まると思います。

これを極力繰り返してはいかがだろうかというのが、今回の記事の結論です。

 

二元論から脱却するための結論

ここからはまぁおまけというか、二元論の更なるお話です。

ちらっと前述しましたが、二元論にとらわれることはいいとか悪いとか考えることが、そもそも二元論にとらわれているんです。

ですから、「そもそも二元論にとらわれてもいいじゃない」とか、「いい時も悪い時もあるのでは?」などの視点が必要になるでしょう。

「二元論にとらわれることは悪い」という論理は、矛盾するのです。

これは批判とか否定とか、ほかの概念でも言えることですが。

でも、二元論にとらわれている限り、第三の視点は獲得できません。

ですから、二元論にとらわれていることを自覚することが本質です。

とらわれてもいいと判断したら、別にそれでいいんですよ。

しかしとらわれから脱して問題解決をしたい時は、とらわれないようにします。

その上で第三の視点を獲得するように動かないと、第三の視点獲得などに進まないでしょう。

良いとか悪いとかではなく、自覚するかしないかですし、自覚した上で好きにすればいいわけです。

自覚から始まる

自覚していないと、とらわれないことは不可能なので、自覚は必須です。

二元論が正しいわけではないのに、二元論に振り回されてしまうと、取り返しがつかないかもしれないですしね。

例えばこの話だって、二元論の組み合わせとも言えます。

問題解決をしたいかどうかとか、自覚があるとかないとか、取り返しがつくとかつかないとか、第三の視点が獲得可能かどうかとか。

二元論そのものが悪いとなると、何も言えなくなります。

そもそもの話ですよ。

二元論が悪いわけではないんです。

二元論は悪という矛盾

二元論が良いとか悪いとか、そういうときもあるし、そうじゃないときもあるという視点は1つの候補です。

重要なのは二元論に基づいているという自覚があるかどうかです。

もちろんこれも、二元論に基づいているのですが、だからといってそれが問題になるわけではないです。

自覚がなければ、二元論から脱却しようがありません。

ただの運任せになりますからね。

もちろん「重要なのは二元論に基づいているという自覚があるかどうか」という二元論を放棄することで、新たな視点を獲得できる可能性はありますよ。

ただ、二元論から脱却しなければならないと思っていたら、その考え方そのものが二元論であるということです。

二元論でもいいじゃない。ということです。

あとは科学的な根拠や論理的な根拠、または理論的な根拠などを持ち出すことで、その二元論に説得力を持たせることは可能です。

また二元論は結論が出ませんが、第三の視点などによって別のアイディアを出すことも可能です。

二元論だって必要

結局は二元論も必要なわけです。

二元論によって私たちは、さまざまなものをよりとらえやすくなりました。

例えば善か悪かというのは、それはそれで重要な視点だからです。

資本主義だと儲かるか儲からないかだけの視点になりがちですよね。

そこに善か悪かという視点を持ち込むことは、第三の視点になり有用です。

しかしそういった二元論が逆に、視野を狭くするなどの弊害をも招きます。

そこからまた自覚し、改めて二元論から脱却します。

と思ったら、また別の二元論に迷い込んでいるわけですが。

この繰り返しになりますし、それでいいんですよ。

結局は枠組み次第

結局のところ、二元論などの枠組みがなければ、何も主張することができません。

枠組みは必要ですが枠組みにとらわれている場合は、自覚することがさらなる視点の獲得に役立つというお話でしかありません。

この話そのものが何らかの枠組みを前提としていますが、それでいいということですし、それでいいという結論自体がまた何かの枠組みを前提としています。

ただそれだけです。

別の枠組みを持ち出して、それだけではないと展開することも可能なわけです。

この記事も結局、二元論やら何やら様々な枠組みを組み合わせて、論を展開しただけです。

持ち出す枠組みが変われば、結論や問題定義そのものだって変わるでしょう。

枠組みに気づけば、本当に望んでいる人生を自覚したり、第三の生き方やアイディアが思い浮かぶ可能性が高まると思います。

私たちはさまざまな枠組みの中で生きていますが、それをある程度コントロールできれば、人生にも役立つと考えます。