「お客様は神様」は正しくない!間違っているから修行になるという話

「お客様は神様」は正しくない!間違っているから修行になるという話

「お客様は神様」って、正しくありません。

間違っていると言っていいでしょう。

でも実は、間違っていることを正しいとしているからこそ、修行になっています。

 

修行内容は正しくない

例えば学校では、勉強という名の修行が行われてきています。

「どうしてこんな問題もできないの!」

「みんなやっているから」

「このまま勉強しないでいると、いい人生をおくれない」

特に受験に関わると、以上のように教育というよりは修行的になります。

しかしこれらは、正しくないのです。

一切音を立てない修行

学校の修行は、一見正しいと思ってしまう人もいるでしょう。

ですから例を変えます。

禅寺では、一切音を立ててはいけないという修行があります。

もちろん細かい物理レベルでは、一切音を立てないことなど不可能です。

これは明らかですよね?

「音を立ててもいい」が正論

禅寺の修行の例では、本来は「音を立ててもいい」が正論です。

しかしこれでは、まったく修行になりません。

ただふつうに生活していくだけですよね。

正論では修行にならないケースなわけです。

そこで、「音を立ててはいけない」=”間違っていること”を、正解とするわけです。

これでようやく修行になります。

逆に言うと、修行内容は正しくないことも多いんです。

生活に役立つことは正論

生活や生きることに役立つことなら、私たちは学ぼうとするでしょう。

それは正論ながら、そのまま修行になります。

生活の役に立たないこととなると、正論のままでは修行にならないことも多いんですね。

学校の教育内容はどうか

学校の話に戻りますが、なぜ間違っているかと言えば、もちろん正論ではないからです。

そもそも修行と教育は別物でして、教育は正論を肯定し、可能性を広げるために行うものです。

例えば個性をいかにして才能レベルまで昇華できるか、などです。

そしてこれは正論ながら、そのまま修行になります。

裏の意図を読む

現代の学校の修行は、正論を”否定”したうえで成り立つ修行です。

しかしこれは、必ず別の意味が含まれていないといけません。

例えば禅寺の音を立ててはいけない修行では、自分自身の一挙手一投足までコントロールすることが目的です。

完全にコントロールできているなら、物理的に不可能なレベルで音がすることは問題にならないわけですね。

というかもはや、コントロールできているなら、大きな音を立てても問題になりません。

何せ「音を立ててもいい」が、正論なわけですから。

まぁ修行が完了したということですね。

修行内容が間違っているとき、それは必ず裏の意図があります。

学校の裏の意図

もともと裏の意図があったのかわかりませんが、あったと信じて話を進めます。

学校の修行で言えば、思考力と記憶力を鍛えることが目的なわけです。

逆に言うと思考力と記憶力がほぼ完璧なら、学校の修行は不要です。

学校の修行は、正しくないのです。

ですから、実際に間違うことは問題になりません。

苦手科目があってもいいんですよ。

「完璧な人間はいないのだから、苦手なことがあるのは当たり前」というのも正論だからです。

でも学校としては、間違っていいとしてしまうと、修行にならないわけです。

苦手科目は全部苦手なままでいいとしてしまうと、修行になりません。

この矛盾を認識しておかないと、例えば「間違ってはいけない」という考え方を、正しいと勘違いしてしまいます。

もちろん正しいとか間違いとか、絶対的なものではないので、これはあくまで1つの見方でしかありませんが。

 

「お客様は神様」だって同じ

以上を踏まえれば、「お客様は神様」も決して正しくないわけです。

まぁそもそもA=Bが現実に成立したら、AとBの意味がなくなりますから。

AはAであって、Bではありません。

お客様と神様の概念は明らかに異なりますから、正しいとは到底言えないでしょう。

修行としてなら問題ない

正しくはないのですが、だからこそ修行になるとも言えます。

ポイントは、修行ということを上の人が理解しているかどうかです。

「修行内容が正しい」と一番思ってはいけない人物こそ、修行の指導者ですから。

そもそも指導者だって、常に修行中の身分です。

自分が偉いとか正しいとか、自惚れてはいけません。

「ちょっとぐらい自惚れてもいいじゃん」という正論だと、修行にならないからという前提ありきの話ですけど。

イメージの限界を超える

こういった間違ったことを正しいとする修行は、イメージの限界を超える練習にもなります。

もうこれ以上無理だと思っても、できると思って取り組むと、意外とできるケースってあります。

お客様が悪いと思える状況でも、お客様は神様と思うことで、新たな解決策が見えることもあるわけです。

そういった効果は確かに期待できます。

ですから内容は間違っていても、修行として無意味ってことは全くないです。

むしろ修行は、乗り越えられれば効果は高いです。

修行を中断することも必要

しかし逆に言うと、命の危険がある状況で、その修行を中断しない理由がありません。

あるいは企業や一個人にとって大きな不利益が生じそうなケースなどでも、中断するべきでしょう。

修行はただの修行でしかなく、最優先事項ではありません。

修行する専門機関だったら、修行に集中すればいいのですが。

このバランスの難しさが、さらに人生を難しくしているように思えます。

あと人によって、乗り越えられる修行も異なるので、この辺も考慮されるべきでしょう。

本来はその前段階で、教育が機能していないといけないんですけどね。

 

まとめ

内容が間違っているからこそ、修行になることは多いということでした。

ただ修行そのものの効果は大きいので、取り組んでみることは悪くありません。

ただ、修行内容は正しいどころか、むしろ正しくないからこそ修行になることも多い点に注意が必要です。

”お客様は神様”も同様で、修行としてわかって取り組むなら、有意義でしょう。

教育観点的なまとめ

正論を否定するからこそ修行になるケースと、正論を追求するからこそ修行になるケースがあるとお伝えしました。

本来の教育は、正論を追求する修行のはずです。

好きなことや個性をどう活かせば、社会で活躍でき人生が充実するか。

そのための戦略と戦術を一緒に考えるコーチ/監督みたいな役割です。

そしてその方向性で、修行をしていくことですね。

しかし今の学校は、その過程をすっ飛ばしていきなり全員同じ修行をします。

ここは特に、正しいわけではないという点にご注意ください。

もちろん生活に必要なことや、心の教育は全員共通でいいと思いますけどね。

自分の望む人生をおくりたい場合、修行は避けられないでしょうが、全員同じ修行をやればいいってものではないでしょう。

しかし資本主義なので、どうしても人件費削減などにより、同じ修行になりがちです。

なので自分が何をするべきかは、自分で自分を知り、人生の戦略戦術として判断していく必要があります。

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