なぜ日本の学校はおかしいの?修行と教育が違う理由とは

なぜ日本の学校はおかしいの?修行と教育が違う理由とは

私は子どものころ、「学校の教育ってこんななの!?」と驚いたことがあります。

確か小学校低学年の頃です。

当時からおかしいと感じていたわけですね。

でも何も言語化できなかったこともあり、結局そのまま学校教育に流されてきました。

 

大人になって分かったことがあります。

それは言い方が悪いかもしれませんが、日本の学校はおかしいということです。

戦術(授業の進め方や扱う内容など)も疑問ではありますが、戦略(何を学ぶべきかやシステムなど)において特におかしさを感じますね。

当時感じたもやもやも、かなり言語化できてきたので、提示してみようと思います。

ちなみに小学校低学年で感じたもやもやは、後ほどご紹介します。

 

修行で済むなら教育なんていらない

まずは教育について視野を広くした話です。

学校での授業というものは、修行形式に近いです。

「やりたくないことでもやれ」

「我慢してやれ」

「みんなやってるから」

最近の学校は改善されてきてるかもしれませんが、少なくとも一昔前の学校は修行的でした。

修行と教育の違いは何なのか、これから明らかにしてみます。

 

効果はかなり高いがそれは当たり前

修行の効果はかなり高いです。

もちろんやり遂げられればの話ですが。

でもこんなの当たり前ですよね?

修行はそもそも本人が滅茶苦茶努力しているわけでして。

困難を乗り越えて修行を完遂すれば、効果があるのは当然です。

 

本来は指導者も修行中の身

修行を強制するのが問題なことがまずあります。

しかしそれ以前に、そもそも修行の指導者として問題があると思います。

本来は修行を指導する人間も、修行中の身分なんです。

これは修行を指導する立場だからと言って、好き放題していいわけではありません。

偉くなったと勘違いしないことやうぬぼれないこと、権力に溺れないことなどは修行の1つです。

自分を偉いと勘違いしてしまう教師や上司は少なくないですよね。

もちろん指導者として全うするという修行もあるので、謙虚すぎても義務を全うできないのですが。

これは学校教育だけでなく、職場の上司や組織のリーダーなどにもいえることです。

本当はこういった、心の教育も行われなければいけません。

 

修行は脱落者が多く微妙な方法

修行形式は、脱落者がどうしても多くなりがちです。

ですから教育が必要なんです。

修行で全員上達するなら、そもそも教育なんて不要ですよ。

でも現実は、なぜか教育が修行みたいになってます。

この時点ではき違えてますね。

勉強という修行を乗り越えられた人は、それなりに得るものはあったでしょう。

そりゃそうですよね。

修行を乗り越えたなら、どんな修行だって効果は大きいですから。

ですが乗り越えられない人にまで修行を強いるのは、教育ではなくもはや無意味で余計なことです。

教育をある程度終えてから、すなわち準備を終えてから、修行に取り組むべきです。

その準備とは心の教育や、能力開発などいろいろあると思います。

学校教育とは、こういうのを教えてもらえるものだと思ってたんですけどね。

正直に言えば、かなり期待外れでした。

ここに気づくのに遅れたことが、さらに悔やまれますけど。

ぜひ今の子どもや若者、あるいは親の立場の人には、深く考えていただきたいところです。

学校では広い視野で教育というものを見ておらず、戦術としての修行しか見てない感じがします。

 

心の教育がないのが恐ろしい理由

これは子どもの頃から感じていたもやもやに該当する部分です。

私はもっと長期的に役立つことで、社会の形成に役立つ本質的なことを学べるのだと思っていました。

1つはもっと抽象度が高い本質的な知性です。

もう1つが心の教育のことです。

今の世の中は犯罪者を生じさせないよう、制度などで対処しようとしていますが、どう考えても心の教育も併用しなければ不可能です。

こんな異常な社会では、永遠になくならないでしょう。

自覚はすごく重要

例えば悪いことをしたら、自分は悪いことをしたと自覚する必要があります。

そうでなければ、「悪いことしたなぁ・・・」という何とも嫌な気持ちと向き合えません。

こういった罪悪感と向き合い、それを乗り越えることで、犯罪をしないでいられるようになるでしょう。

結局犯罪者が犯罪をし続けることは、悪いことだという自覚がないからです。

知識として知っているだけで、人を傷つけることと向き合っていないわけです。

人を傷つけたと認めることは、私たちにだってとても難しいんです。

ですがこれを8割の人間ができるのと、2割の人間しかできないのとではどうでしょう。

あまりにも形成される社会に差がありすぎることは、想像に難くないでしょう。

犯罪の多い社会か、それとも多くの犯罪者までが更生してしまうほどの社会かの違いです。

現代社会はこの中間かなって感じですが、地域によっては犯罪が多発しますから、わりと犯罪寄りかもしれませんね。

社会形成の大きな役割を担うのが、心の教育なんですよ。

 

「私は無能だ」は自覚か?

別の自覚の例もみてみましょう。

勉強や仕事ができない人が、「私は無能だ」と認識することは自覚でしょうか?

結論から言えばこれは自覚ではなく、拡大解釈に該当します。

たいていの場合、自覚ではなく解釈です。

勉強や仕事ができないなら、何ができて何ができないのかを、正確に把握することが自覚です。

同じ人間がバカにも天才にもなると私は思っていますが、それは人間が条件付きの存在だからです。

完璧な人間はいないという論理に基づけば、当然の結論ですね。

早い話、どういう条件ならできて、どういう条件ならできないのかを把握することが大事です。

教育でこのように自覚の作用を高めていけることは、能力的にもなかなか大きな恩恵があるように思えます。

困難に直面したら?

例えば人生で困難なことに直面したらどうするべきでしょうか。

逃げるべき?対面するべき?一度考えるべき?周囲の人に頼ってみる?

こういうのを教えることも、教育の役割だと思うのです。

もちろん知性以外の要素も大きいので、これも心の教育に該当すると言っていいでしょう。

特に心の持ち方が大事ですからね。

偏見なく物事を見る

差別の原因については、いろいろ言えることがありそうです。

ただ、簡単に言ってしまえば結局のところ、「差別的な見方」に原因があるわけです。

実際には人間は正確に目の前が見えていません。

本当にこういう人は多いです。

ただ物や背景、人をみるべきということですね。

一切の偏見も思考もなく。

それができてから思考をするようにすれば、理不尽な差別などはほぼ生じないでしょう。

極力主観を排除した見方を育てることは、多くの差別をこの世から消すほどの威力を期待できると思うのです。

瞑想も強力

集中力を鍛えたり、感情を落ち着かせるなどの効果を期待できる瞑想も、教育に取り入れない理由のほうが少ないでしょう。

まぁ瞑想は奥が深いと思いますが、続けていれば上達するでしょうから、早期からやってもいいぐらいです。

心の教育や瞑想の導入による恩恵は何があるでしょうか。

例えば飲食店アルバイトで理不尽に怒鳴り散らされたり、ちょっとしたミスでキレる上司に会わなくて済むなどの効果が期待できるわけです。

それにサッカーでいうアウェー、野球でいうビジターでも、メンタルはとても大事です。

新しい環境へ挑戦することなどにも、心の教育は役立つでしょう。

道徳はほぼ無意味じゃないかな

道徳の授業は正直ほぼ意味がないと思います。

子どものころから思ってましたが、本当に効果あるんですかね?

私としては正直今思っても、ほぼ影響はなかったように感じます。

マンガのほうがマシだと思えるレベルです。

心の教育っていうのは、すでに心があるわけですから自分の心をよく観察することなんですよね。

友達と喧嘩したときどう思ったか、傷つけた時どう思ったかっていう方向性です。

罪悪感とか、悲しさ、悔しさ、むなしさなどに気づくことです。

それを引きずりながら味わい尽くし、前に進むことを教えるのが心の教育です。

そうすれば、道徳心は自然と生じてくるでしょう。

 

勉強そのものには意味がある

一応念のため言っておきますが、勉強そのものには意味があります。

教育の正解は人によって違いますが、勉強という修行を乗り越えることそのものにも意味はあります。

たくさんの思考を繰り返せば、それが無意識でできるようになります。

今の授業内容は具体的すぎる上に、抽象化することも教えなさそうなので質が微妙だとは思いますが。

実際に問題を解決できる思考が身につくのですから、無意味なんてことはありません。

まぁ問題といっても非常に限定的な問題で、現実の問題解決能力とは別ですけど。

勉強という修行を乗り越えたなら、記憶力も上がっているでしょうから。

ただ勉強も、大量にしないとあまり役立てることはできません。

1つのことを極めるには1万時間、学習や実践をする必要があるとされます。

知性の教育

私が子供のころ疑問に思った知性の教育について書いてみます。

それはあまりにも授業の内容が、具体的すぎたことです。

ある程度抽象化されて普遍的でなければ、役に立たないのです。

それを私は小学校低学年のころから何となくですが、感じていました。

学校教育を受けていくうちに、こういった本質的なことを見抜く能力も下がっていきましたが(笑)

本当にひどい教育だったなとしみじみ思います。

抽象化思考トレーニングで取り戻せましたけどね。

まぁでも修行は修行として意味がありましたし、得られるものも大きかったです。

ホリエモンの生き方

そういえばホリエモンは、学校でも先生の言うことを聞いてなかったようです(笑)

子どもにはそれぞれ合った生き方があります。

それを捻じ曲げるようなものを教育とは言いません。

「その子供にあった生き方、教育とはなにか」という視点を、親や担当教師が考え続けることこそ大事だと思うんです。

あ、もちろん子ども自身も考えることが大事です。

これはもう当然ですね。

とはいえ気にしない子もいるので、この辺はまぁ人それぞれです。

周りもあまり余計なことしないほうがいいケースもあるでしょうし。

修行はあくまで1つの手段ですし、それには教育という準備が必要です。

もちろん修行という手段そのものも、教育の一種ではありますが、初心者向けの教育手段ではないということですね。

修行と同じ効果をもたらす教育とは

ホリエモンは、とにかく徹底的に遊びぬいていました。

まぁ百科事典を幼少期のころに暗記したという話もあるようですが^^;

中退といえど、さすが東大だっただけあります。

ポイントは面白いと思ったことを、徹底的にやるということです。

これは修行とほぼ同じ効果をもたらすと言えるでしょう。

別に修行形式じゃなくても、修行レベルでやりまくればいいだけの話です。

結局それは、好きなことややるべきと思えることじゃないと、たいていの場合ムリですけどね。

もし私に子供がいたら、きっと徹底的にやることを教えると思います。

ただし子どもにとって、その教育法は正解ではない可能性があります。

あくまで「その子供にあった生き方、教育とはなにか」という観点に基づき模索し続けることが、重要なのではないかと思うのです。

 

まとめ

というわけで、結局のところ学校教育がおかしいのは、修行と教育を混同しているところにあります。

教育の一種という側面は確かにあります。

でも、自衛隊なんかも修行の領域ですが、大人でもできる人は多くないでしょう。

教育というのは、可能性を広げ、高めたり深めたりしていくことにあります。

修行は、ある程度可能性や集中すべき範囲が定まった人が実行するべき方法で、教育というよりは訓練です。

 

別の言い方をするとやりたいことなら、修行そのものがやりたいことに含まれます。

心理的にやりたいからというのも当然あります。

しかし、可能性や範囲がある程度狭まっていることもポイントですね。

例えばギターをやりたいと決まっていることは、範囲や可能性が狭まっています。

好きとわかっているのですから、ギターの修行はやりたいことに入りやすいです。

しかし何をやるか決まっていない人に、ギターの修行をさせるのは、かえって非効率です。

本人も望まないでしょう。

これを勉強でしちゃっているわけですね。

もちろん生活に必要なことは教えるべきですが、さすがにその程度のことに修行は不要でしょう。

そもそも生活していれば自然と覚えていきますから、やはり能力開発などを優先すべきかと思います。

 

また初心者のころは、やりたことが決まっても自由にやりたいと思うので、まずはそのほうがいいでしょう。

ただ一通りやってできるようになると、停滞しがちになるんですよね。

そういう時に修行をすると、また一段上にいけると思うのです。

何事にもリズムがあるように、最初から最後まで修行というのはかえって効率が悪いです。

休息や集中、普段の過ごし方というのが、重要になってきます。

その中で修行は、1つの手段でしかありません。

まぁほかにもいろいろ学校教育でおかしいところはあるでしょうけど。

修行を教育と混同していることは、その1つの根本的な原因ではないかなというのが今回のお話でした。