弱肉強食は嘘?本当の自然の摂理とは何かを知らないと人生に失敗するかも

弱肉強食は嘘?本当の自然の摂理とは何かを知らないと人生に失敗するかも

世の中では、自然の摂理とは「弱肉強食」であるとされています。

この考え方、ちょっと世知がらみが強すぎますね。

弱肉強食という論理は、いじめ、殺人、労働者の搾取など、あらゆる局面において正当化目的で悪用されます。

しかし弱肉強食をもってしても、殺人などの犯罪を正当化することはできません。

「弱肉強食こそ自然の摂理」という考え方は、人生の方向性が間違ってしまう可能性があります。

この考え方は言うなれば、視野が狭いんです。

 

もっと上位の自然の摂理とは

実は弱肉強食よりも上位の自然の摂理があります。

その上位の自然の摂理とは何でしょうか。

それは「共存や共生」のことです。

共存、共生という摂理の中に、弱肉強食という摂理があるに過ぎないんですね。

食物連鎖という共存システム

弱肉強食の例としてよく食物連鎖が挙げられます。

植物を食べる小動物を、ほかの動物が食べ、その動物を人間が食べるみたいな感じです。

これ見方によっては、共存システムとも言えるんです。

そう考えると、弱肉強食は同時に共存でもあります。

善と悪はそもそもお互い滅ぼす関係ではなく、共存関係かもしれないのです。

犯罪者は弱者になり淘汰される

犯罪者は死刑になったりしますが、これも一種の弱肉強食と考えられます。

犯罪者が弱者というと、ちょっと違和感があるかもしれませんが。

囚われの身なのでされるがままという意味では、弱者といえます。

死刑は「共存」のための弱肉強食というわけです。

弱肉強食も、共存を目的とする全体の一部に過ぎないんです。

食べられることは仕方ない

食物連鎖は共存でもあると言いました。

しかし弱肉強食でもあるので、食べられてしまうことは仕方ありません。

それも自然の摂理ですからね。

ただそのおかげでバランスが保たれ、地球上の生物は生きていけると考えられています。

特定の生物が増えるなどしてバランスが崩れると、大きな悪影響が生じる可能性がありますから。

摂理の1つでしかない

結局のところ弱肉強食は、摂理の1つでしかありません。

その上に共生、共存があるわけです。

そもそもそうでないと、人類以外は絶滅していなければなりません。

また人類の中でも争いまくりで、人口がはるかに少なくなければいけません。

でも現実は、まったく異なります。

このことから、共存のほうが弱肉強食より上位であると考えるべきでしょう。

具体的なたとえ

共存、共生の具体例を見てみましょう。

植物と人間は、共存共生関係にあります。

二酸化炭素を植物は必要とし、植物は酸素を出します。

人間は逆ですよね。

酸素と二酸化炭素の交換です。

また植物は移動などできませんから、人間に環境を整備してもらいます。

その代わり植物は、食べ物などを提供します。

もちろん人間に害のある植物もありますし、それらは滅ぼされるかもしれませんけどね。

動物の具体例

例えば馬なら、移動を助けてくれます。

その代わりに、世話をするわけです。

また馬にとって脅威の敵から、人間が知恵で守るわけですね。

猫はネズミを捕らえるのに役立ちます。

その代わり寝床を提供したり、世話をしたりするわけです。

ついでに猫好きにとってはかわいいわけです(笑)

むしろ現代はこっちのほうがメインですね。

人間同士は分業している

人間同士の場合だと、人それぞれ好きなことや得意なことをやればいいわけです。

嫌いなことや苦手なことを、わざわざするなんて社会的にも本来は損失です。

どうしても誰かがやらなければならないことがあるなら、給料をしっかり高くするなど正当な方法をとればいいでしょう。

何かが苦手だからといって人を切り捨てることは、ただの自己中心的な動機です。

その人が得意とすることを、やればいいわけですから。

もちろん環境に合わなければ、その環境から去ることは必要かもしれませんが。

そういう意味でも本来は、社会においてやり直しがたくさんきくようにするべきなんですよね。

 

人間のしていることはただの暴力

以上のように、共生も含めたたくさんの生物、動物による共存関係の結果、食物連鎖が誕生するわけです。

この食物連鎖は、全員が共存するために必要なバランスを維持する仕組みであり、その一部に弱肉強食があるに過ぎないわけです。

ですが、人間のしている弱肉強食にあたる大半のことは、摂理とは無関係です。

特に完全に自分のためだけでしかない行為もあります。

こういったことは社会にとって害でしかないので、犯罪者として排除されるわけです。

犯罪を取り締まるシステムは、弱肉強食をもって共存共生を目的としたものですね。

ちなみに資本主義もそうです。

とはいえ、いずれもまともに機能しているかは別問題ですよ。

また、たいていの場合は共存や共生のためではなく、自分のためという動機が入ってきます。

私たちは聖者ではないので、自己中心的になってしまうのは致し方ありません。

しかし人間なのですから、共存や共生のためでないただの暴力的行為は、できるだけ控えるべきでしょう。

 

人間社会の支配力とは

昔は暴力がこの世を支配していました。

その後、人間は武器や罠、戦術を開発し、社会を形成し、法律をつくるといったことをしてきました。

すなわち暴力の世界から、知恵が大きな力を持つ世界になってきました。

例えば法律には支配力がありますよね。

すなわち現代社会は、知恵の弱肉強食という側面があります。

もちろんこの宇宙は物質空間ですから、暴力的なことを実行することも可能ですけどね。

知恵の支配

まさに法律や政治、権力、経済も、弱肉強食という側面があるわけです。

本来は共存共生のためのはずですが、実際その通りなのかは別問題です。

改正の余地はいくらでもあると思います。

自分の欲望のためにあの手この手で正当化されてきたものが、いくらでもあるでしょうから。

共存という摂理に基づくものなら、それは摂理の一部です。

そのための弱肉強食なら、仕方ない側面もあるかもしれません。

ですが人間のしている多くのことは、自分勝手でしかありません。

共存のために貢献した結果、やむをえず生じた弱肉強食は、あまりないでしょう。

世界、地球、人類のためにならないものが、正当化されることは基本的にありません。

共存のためであることが、大前提だからです。

 

成功法則の真実でもある

売り上げを上げるためや、人生で成功するための方法論として、人の気持ちに応えることなどが挙げられますね。

共存共生という自然の摂理を考えれば、綺麗ごとではないことがわかります。

もちろんどんな方法も、人によって合う合わないはありますよ。

自分なりの戦略に合っている戦術かどうかが大事です。

すなわち人によって違うので、共存共生に基づいたその人なりのスタイルがあっていいんです。

ただ、共存共生というのをできるだけ踏まえておかないと、人生そのものに失敗する可能性が高まるのではないでしょうか。

詐欺的なやり方をすれば、あっという間に炎上しますし。

失敗しても学べばいいので、失敗が悪いわけではありませんけどね。

 

 

まとめ

というわけで弱肉強食の上位には、共存という自然の摂理があるというお話でした。

弱肉強食は、食物連鎖という共存のために生じる結果の一部です。

犯罪や欲望による暴力を正当化するものではありません。

弱肉強食が自然の摂理なら、明らかに共存共生も自然の摂理でしょう。

共存共生という自然の摂理は、人生や社会での成功、自分なりの生き方をする際に重大な影響を与える法則です。

 

こういった教え方をしない学校教育については、ちょっと偏りがあるように感じますね。

いずれにしても、学校や世間の言うことは鵜呑みにしない方がいいでしょう。

もちろんこの記事にある考えも、絶対的に正しいわけではないので、私たち一人一人が考えることが大事です。

 

嘘だらけの人生は、生きることそのものが嘘になってしまうリスクがあると思うんです。

ですから人生には、この世の真実を発見していくことが、含まれるべきではないでしょうか。

この世の真実として、共存共生が自然の摂理であることは、十分現実的な話だと私は考えます。

何にせよ、安易に情報を鵜呑みにせず、自らの目でよく見てよく考え、真実・真理を見出すことが生きる上で重要だと思います。