正解という概念は正解ではない話【正しさは悪かも】

正解という概念は正解ではない話【正しさは悪かも】

私たちはあまりにも、正解という概念に洗脳されています。

集団洗脳ですね(笑)

正解という概念は、正解ではありません。

ただの概念です。

ここがポイントですね。

 

誰かが「これが正解だ」と言ったとき、それはその人が正解という概念を持ち出しただけです。

正解が正解なわけではありません。

また、正解というのも、枠組みを前提とします。

1+1=2

が正解なのは、十進数において、和算をするという枠組みの中での話なわけです。

正解という概念自体、枠組みを必要としていて、条件付きで成立する概念です。

 

社会のルールも同様

社会のルールだって、決して正解ではありません。

ただのルールです。

本当に守ることが正しいかは、別の話なんです。

例えば昔は、赤紙で戦争に行かなければいけませんでした。

今の時代なら、間違いだと思える人が多いでしょう。

しかし当時は、それが正解なんだと思っていた人のほうが多いでしょうね。

 

実際、社会のルールは間違っていることも多々あると思います。

もちろんこれは、私が間違いという概念を持ち出しただけなのですが。

 

正解も間違いも、ルールも常識も、ただの概念にすぎません。

ルール故に守りますが、ルール故に所詮はルールに過ぎません。

だからこそ、ルールに対して間違いという概念を、持ち出すこともできます。

実際、オリンピックのルールは細かいところも含めて、修正を繰り返しています。

法律は、今後も変わり続けるでしょう。

ルールはルールでしかありません。

ルールが正解というわけでは、ないんですよ。

もし誰かがそういったなら、それはルールに正解という概念を持ち出しただけです。

 

正解という概念は、概念でしかありません。

もっといえば正解は、幻想にすぎません。

この宇宙に、正解もクソもありませんよ。

 

宇宙の現象だけが真実

風で木が揺れているのを見て、間違っているなんて思いませんよね。

ナイフで人や物を切断するとき、物質的にはただ原子、分子、細胞の結合が切れているだけです。

そこに正解も間違いもありません。

なるべくしてなった、宇宙の現象です。

この宇宙で起きる現象に、間違いも正解もありません。

正解とか間違いがあるときは、必ず誰かがそれらを持ち出してきた時です。

宇宙に、正解があるわけではなく、あくまで私たちが持ち出しているだけです。

それが正解だとか間違っているとかいった話ではありませんよ。

もし誰かがそう言ったなら、それこそ概念を持ち出しているだけですからね。

 

「これが正解だ」

と言ってきたら、間違いなくこちらも、

「それは間違いだ」

と反論可能なのです。

どういった概念を持ち出すかの違いだけだからです。

もちろん、そこに説得力があるかどうかは、枠組みや内容などの前提も含めて、何を持ち出すかで決まりますが。

 

常識も常識ではない

正解は、正解ではありません。

間違いでもありません。

常識でもないし、異常でもないです。

運でもないし、悪でもないです。

善でもないし、論理でもないし、命令でもないです。

正解は、ただ、正解という概念なだけです。

常識だって、常識なわけではありません。

ただ、常識という概念なだけです。

普通という概念も、ただの概念にすぎません。

ですから本質的には、善と悪は無関係なんです。

善はただ善という概念なだけで、悪はただ悪という概念なだけです。

私たちは、それらを持ち出して勝手にくっつけただけです。

善と悪は関係性があるということを、人間が持ち出しただけです。

そしてさらにそこに、正解という概念を持ち出したのです。

宇宙や神が、それが正解と言ったわけでもないのに。

 

私たちは議論することができます。

改善もできます。

より良い社会を目指すことも可能です。

もし正解が正解なら、議論など無意味です。

そうですよね?

 

絶対的ではないということ

本質的には、正解が正解じゃないというのは、絶対的なものではないということを意味します。

まぁこれは、当たり前なんですけどね。

もちろん今のも、私が当たり前という概念を持ち出しただけですよ。

当たり前じゃない人にとっては、当たり前ではないでしょう(笑)

それは、その人たちが当たり前という概念を持ち出さなかったのです。

 

ただ概念を持ち出しただけなのですが、まるでそれが絶対的なものであるかのように錯覚してしまうことが、私たちにはあるわけですね。

そういう時に、人は顔を真っ赤にしがちです。

どこでもいつでも、私たちはただ概念を持ち出しているだけです。

これが事実(という概念)のはずです。

そうではないでしょうか。

ただ正解という概念を持ち出されただけなのですが、なぜか私たちはそれを絶対的なもののように感じてしまうのです。

 

私たちはそういった概念にとらわれてしまいがちです。

正解という概念に、縛られるわけです。

一切縛られないのが、悟りの領域だと思いますが、悟ることはあまりにも非現実的です。

 

それでも私たちは、概念に縛られるべきではないんです。

もちろん私は、概念に縛られるべきではないということを持ち出しただけです。

故に、別に概念に縛られてもいいということを、持ち出すこともできます。

持ち出すか持ち出さないか、違いはそれだけです。

ここでも、私が違いはそれだけということを、持ち出しただけなのです。

どこでも持ち出しているだけです。

 

世の中で、正解という概念を持ち出す人間の中に、間違いという概念も持ち出せる人がどれぐらいいるでしょうか。

それこそが、ただ概念を持ち出すだけの人ではないでしょうか。

もちろん実際には、間違いという概念を持ち出さなくていいのですが。

持ち出そうと思えば持ち出せることが、ただ持ち出しただけであることの確認になるんです。

もし間違いという概念を持ち出せないなら、その人は正解を正解だと思っています。

そういう人は得てして、傲慢です。

ここも、傲慢という概念を持ち出しただけです。

傲慢が正解なわけでも、常識なわけでも、もちろん傲慢なわけでもないです。

ただの概念です。

ですからその人は、傲慢ではないかもしれないわけですね。

その人は正解を正解だと思っているということも、私が持ち出しただけなのです。

 

実際のところ、概念を持ち出しているだけとわかったところで、その実践を完璧にするなんて到底ムリです。

悟りでなければ、どうしたって私たちは、何かにとらわれてしまいます。

 

この話しでしたことや、間違いなどさまざまな概念にとらわれるべきではないのですが、

だからといって、

「1+1は3だ!」

という頭のおかしな人間になれという話ではありません(笑)

言いたいことは、ただ、持ち出すか持ち出さないかだけでしかない、ということです。

もちろんこの話も、持ち出すか持ち出さないかだけでしかありません。

その上で、私が持ち出しただけです。

 

この話が正解だということではありません。

もし誰かがそう言ったならそれは、その人が正解という概念を持ち出しただけです。

私はただ、考えたことを基にして、この話を持ち出しただけなんですよ。