差別してはいけない?区別との関連と結論など

差別してはいけない?区別との関連と結論など

「差別してはいけない」

とよく言われますが、これは区別でしょうか。

それとも差別でしょうか。

もちろん差別ですね。

 

ですから、差別してはいけないという論理は、矛盾するわけです。

そこで区別するという話になりやすいのですが、これも少しおかしな話なんです。

 

矛盾の解消の手がかりとは?

差別を批判することは、差別を差別するみたいになるので、矛盾しがちです。

そういった本質的なことを見てみましょう。

たとえ話から始めますね。

よくある肌の色の例

例えば他人を肌の色で差別している人物を、

「あの人は肌の色で差別している」

区別したとしましょう。

もちろん、その発言に否定的なニュアンスがあれば実質は差別になるかと思いますが。

ひたすら区別

あくまでその発言に、否定的なニュアンスは一切ないとします。

現実的にありうるかは不明ですけどね。

こうしてみると、差別してはいけないということを守った場合、ひたすら区別するだけです。

あの人は差別をしているという、この人は差別をしていないという風に、区別を繰り返すだけです。

区別するだけでは、差別はなくならないわけです。

区別の問題点

もちろん全員が区別するだけなら、差別は生じないでしょう。

しかし区別では限界があります。

女子トイレに男性が入ってはいけないのも、差別に当たりますからね。

それにテストで高い点数を取った人と、低い点数をとった人で分けることも、差別になりかねません。

社会を放棄すれば、人は区別するだけで生きていけるかもしれませんけどね。

聖者の話

聖者は、差別をしてはいけないと明確に否定しています。

いったいどういう意図で言ったのでしょうか。

深堀する必要があるでしょう。

考察してみます。

 

差別を差別するのはOK

そもそも差別という概念は当然に、差別という概念を肯定するはずです。

そうでなければ、差別という概念は自己矛盾しますから。

よって、差別を差別するのは、問題ないということですね。

他人の区別には注意

区別を差別するのは、せっかくの区別を差別にしてしまいます。

この場合は、区別を区別のままにしておくべきでしょう。

「あの人は黒人だ」

といった人に対して、「あなたは差別している」と指摘する行為は、差別になるというわけです。

あなたは区別していると言えば、ただ区別をしただけです。

マイナスだから打ち消しあう

差別を差別するなら、負の計算のように-と-がかけ合わさって、プラスになるかもしれないわけです。

差別を差別すれば、差別がなくなる可能性があることの例えでしかないですけどね。

 

区別は見極めるため

区別と差別を区別するためには、区別的な見方が必要です。

そういう意味では、差別ではなく区別が大事といえるところはあります。

区別と差別を見極めるためですね。

瞑想的な技術も必要

区別と差別を区別し見極めるためには、冷静なものの見方が必要です。

ですから、世の中を区別的に見ることは、瞑想的な見方でもあるわけです。

客観的に、冷静に見るのがまず必要です。

順番がある

差別を差別する前に、まず区別と差別を区別することが必要です。

何が区別で何が差別なのか明らかにしないと、先に進めないのは当然ですよね。

復習ですが差別という集合の中で、差別をするのは無問題です。

なぜなら差別という世界の中では、差別は当然に肯定されるからです。

分類だけで終わらないために

世の中を区別するだけ、分類するだけでは、働きかけがないです。

世の中を変えるほどには至らないでしょう。

でも差別を差別するということは、一種の働きかけです。

そしてそのためにまず、「世の中をただ区別するだけ」という瞑想的な見方が前提として必要です。

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まとめ・・・本質的な結論(暫定)

まとめると、差別を差別するためには、まず区別が必要ということです。

ひたすら区別して、あらゆる差別を洗い出します。

そしてそれら差別という集合に対して、差別してはいけないという差別をするわけです。

こう考えれば、矛盾はしないのです。

差別をしてはいけないというのは、差別している人だけが言われているということです。

一般論として解釈すると、必ず矛盾となってしまいますから。

差別を差別するとは?

差別を差別するとはどういうことでしょうか。

単純に言ってしまえば、いい差別と悪い差別があるという感じです。

合理的な差別と非合理的な差別があるとか、客観的な差別と主観的な差別があるという種類もありますね。

いずれにしても差別を差別するなら、矛盾はないわけです。

一般論の限界

例えば、公務員に外国籍の人は基本的になれないというのは、一種の差別といえるでしょうが、法律で定められているわけです。

また合理性もあります。

だから何でもかんでも差別はいけないというのは、明らかに限界があります。

これが一般論の限界です。

賃金格差だって同じ

例えば賃金格差だって、一種の差別です。

危険だろうが責任ある立場だろうが、賃金に差をつけるならそれは一種の差別です。

ですがこれは合理的な差別として、問題のない差別に分類していいんじゃないのってことですね。

これが「差別を差別してもいいじゃない」ということです。

してはいけないものはしてはいけない

していい差別と、してはいけない差別に分類しちゃってもいいわけです。

聖者の「差別をしてはいけない」という発言は、してはいけない差別はしてはいけないという意味だと解釈しています。

もちろん差別という集合全体の可能性もありますが、賃金格差なども、してはいけない差別に含まれるか疑問ですからね。

ただまぁしてはいけない差別というのは、自分や相手の心に聞いてみればほとんどの人はわかるはずです。

本当はすべきじゃないとわかっているなら、その差別はやめたほうがいいんじゃないかなと思うわけです。

補足

繰り返しますが、差別という概念は、差別という概念自身を肯定するはずなんです。

そうでなければ、自己矛盾し、概念の存在そのものが危うくなります。

よって、差別を差別することは問題ないわけです。