学校やいじめ、嫌なことから逃げるのは悪くない!でも”何のためか”を確認しよう

学校やいじめ、嫌なことから逃げるのは悪くない!でも”何のためか”を確認しよう

「学校や嫌なことから逃げるのは悪いことか?」

といったテーマは、ホットですね。

昔はいじめられるほうが悪いの一点張り。

こんなこと議論にもなりませんでした。

まともな社会に少しは近づいているのでしょう。

 

逃げることについて、結論から私の考えをお伝えします。

「逃げないために実行するのが逃げること」

これです。

何から逃げないために逃げるのか?

それが重要です。

私は好きなことをする生き方をずっと求めてきています。

でもそれは、楽をするためではありません。

楽をしたくて求めたことは一度もないです。

努力することから逃げないために、好きなことを求めています。

 

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いじめからは自己責任を取り戻すために逃げる

まずはいじめられるなどのケースの場合ですね。

これは、自己責任および自由を取り戻すために逃げます。

「逃げた後どうしたらいいのか?そこまで周囲が責任を持つべきだと思う」

「誰か救ってほしい」

というのは、とても依存的です。

依存的だと逃げる意味がない

「誰かに助けてもらえるのを待っている」

これでは、逃げる意味があまりありません。

いじめられようが逃げようが、あまり状況は改善しないでしょう。

自己責任のもと、逃げるという決断を下すわけですから。

逃げた後どうするかも、自分で試行錯誤して模索していくしかありません。

自分の人生を取り戻すために逃げるのです。

もちろん理想は、逃げる前提のシステムがあることですけど。

この社会はとても宗教的で、閉鎖的なんですよね。

本来はもっと自由なのが教育なんですけどね。

私ならどうするか

もし私が今の時代いじめられて、逃げるとしたらどうするか?

学校で学べることは勉強と、人間関係です。

これらを、ほかの場所で学べば良いだけの話ですね。

習い事、地域のコミュニティ、オフ会、友達などで人間関係を経験します。

高校生ならバイト先なども候補になります。

勉強については独学、家庭教師、塾が主要な方法でしょうか。

あと本当の教育の1つは、能力開発だと思っています。

思考力や記憶力などを向上させることも、重視するべきでしょう。

私自身、学校以外に居場所を作るという発想がなかったので、その辺は後悔していますね。

自由に柔軟に考えましょう。

いじめに耐えることは社会的に何の価値もない

いじめに耐えることが大事だという主張も見かけます。

私自身経験しておりますが、まず前提としてどんな経験からも学べると思っています。

しかしその上で言うなら、わざわざ経験したり耐えるほどの価値はないという結論です。

なにせ社会的には何の価値も生み出されていませんからね。

誰かのためとか、社会のために我慢するんならわかりますけど。

仲間を逃がすために、自分が時間稼ぎをして犠牲になるとか。

あとは家族のためにあまり好きではない仕事をするとか、ですね。

でもいじめに耐えるのは、誰かのためにはなっていません。

消極的だったり、依存的な我慢でしかないわけです。

空気を読み、親や周囲のためならわからなくもないですけどね。

実際にためになっているとは言えないでしょう。

むしろ自分のためにいじめを我慢しろという親の言うことなど、聞くべきではないでしょう。

結論として、いじめは耐えるほどの意味や価値があるとは言いにくいです。

むしろデメリットのほうが大きいでしょうね。

我慢と甘えは紙一重

思考停止してただ我慢するだけなら、一種の甘えという見方もできてしまいます。

ただこれはおそらく、自己不信が原因です。

自分を信じることができていません。

自分を信じていないというのは、極めて致命的です。

これは私の実体験です。

今も継続中な気がしますね。

能動性や、行動が大事です。

でも自分を信じられないと、行動ができないんですよ。

ただされるがままというのは、一種の甘えです。

いじめっ子を気遣うなら我慢もあり

ガンジーみたいに信念を持っているとか、キリストみたいに自分を処刑する人間に気遣っているなら我慢もいいです。

キリストみたいにですよ。

「おお神よ。私をいじめている彼らは自分が何をしているのかわかっていないのです。どうかお許しください」

そう思えるなら、別にいいんですよ。

でも私を含め多くの人はきっと、そんな立派な人間性は持ち合わせていないでしょう。

”嫌”なら、行動しましょう。

嫌なのに行動しないなら、それは現状に甘んじているだけということです。

でもこの気持ちは、私自身そうでしたし、痛いほどわかります。

むしろ、今もあまり変わってないかもしれません。

我慢はメリットよりデメリットのほうが大きい

メリットとデメリットを考えるなら、まぁ一般的にはデメリットのほうが大きいだろうということです。

いじめに対する我慢の場合、人間不信になったり、コミュニケーションが苦手になったり、自己不信に陥りやすくなります。

その代わり、他人の苦しみをより理解できるようになったり、自分の言動1つ1つに注意深くなるなど、良い効果(学び)もあるでしょう。

まぁこの辺はその人次第ですが。

総合的にはデメリットのほうが大きいのではないかということです。

しかしそれにより得られるメリットは、苦労や地獄を経験していない人には得難い学びです。

ですから、いじめられたから人生不幸になるとかは、思わないほうがいいでしょう。

実際それは真実ではないです。

過去にとらわれてしまうと、かなり不自由になります。

我慢すべきかは積極的な動機があるかを重視する

いじめている相手を傷つけないために耐えるとかなら、意味はあると思います。

それは積極的な我慢です。

もちろんそうするべきとか、そうする必要があるという意味は1ミリもありませんよ。

我慢に目的があるならいいということですね。

一方でなんとなく、特に目的もなくいじめに耐えている状態は、一種の依存性があるかもということです。

つまり自分は何もせず、ただただ待っている状態ですね。

いじめが平気ならまぁいいんですけど。

苦しく苦しくて仕方ないなら、行動なり工夫なりしたほうがいいでしょう。

時間が解決してくれたにしても、今後も最初からそれだけをあてにすべきではないと思います。

依存性がいじめられる原因になりうる

好きなことをする生き方にせよ。

いじめられることから逃げるにせよ。

どちらもですね。

依存性があると難しくなります。

誰かが何とかしてくれるとか、助けてくれないのが悪いとか、他人のせいにするわけです。

これは違います。

社会は異常!しかし…

今の社会が異常なのは確かですし、改善のしどころは山のようにあります。

でも人のせいにするってのは、環境のせいにするようなものです。

川がないから水が飲めず死んでしまったと。

もちろんそれは事実かもしれません。

でも、私たちはそもそも環境に生かされているのですから、環境の影響を100%受けるのは当たり前の話です。

ですから環境に不満があるなら、自分から動くしかないわけです。

川がないなら、探しに行くなど行動するしかありません。

誰かが救ってくれるのを待つとかは、まったく意味がありません。

我慢は美徳ではない

我慢が美徳と言いますが、これは部分的に間違っています。

お客様のために、好きではない仕事を我慢するなら、誰かのためになっています。

あるいは時間の解決がベストだと判断し、決断したなら待つのもいいと思います。

しかし嫌な仕事だけど、お金のための我慢は建設的な我慢ではありません。

完全に自分のためであり、私利私欲です。

もちろん私利私欲でもいいんですよ。

ただ、私利私欲の場合、社会的には美徳にはなり得ないということです。

なんとなく、漫然と、日々を過ごす感じですね。

こういった消極的な我慢は違うということです。

社会的な価値、創造的な価値などを目的とした、積極的な我慢ならいいのですが。

建設的な我慢ですね。

創造性や工夫がすべて

いじめられたうえで、自分がどうするのか、どう動くのか。

それも大きな学びになります。

ただひたすら耐えたところで、ただ時間が解決しただけです。

もちろんそれはそれで、学びはあるでしょうけど。

いじめに耐え続けるのと、学校以外に居場所を見つけるのと、どっちを1人の人間として実行するのか、決断するのかということです。

これが主体性で、これが責任です。

できないことはできないと言うのが責任です。

しかし資本主義では、儲けるためにできないことをできるというケースもありますね。

命がけで好きなことをする生き方

好きなことをする生き方の場合も同じで、積極的にどう動くかにかかっているでしょう。

命がけで、好きなことを見つけて育てていく主体性が必要なのだと思います。

好きなことを絞ったら、ほかは捨てることが必要ですね。

もちろんこれは一時的で、人生から捨てろという意味ではありませんが。

ブログで稼ぎたいなら、ゲームとか我慢してブログにたくさん時間を費やすべきということです。

ゲームで稼ぎたいなら、安定などは捨てろとも言えます。

何を選び、何を捨てるのか。

何から逃げず、何から逃げるのか。

嫌いなことから逃げる戦略事例

努力から逃げないために、嫌いなことや苦手なことから逃げるのが1つの戦略です。

好きなことじゃないと努力は続かないでしょ?

ということですね。

  • 努力から逃げないために好きなことから逃げない
  • 好きなことから逃げないために、嫌なことから逃げる

ということです。

他には好きなことから逃げないために、安定から逃げるとか。

好きを仕事にするなら、安定は諦めるしかないかもしれないわけです。

もちろんその「好き」の内容次第ですが。

いじめから逃げる戦略(目的)事例

「社会に参加することから逃げないために、いじめから逃げる」

「人とコミュニケーションすることから逃げないために、いじめから逃げる」

こういうことなんですよ。

いじめられたら、コミュニケーションを学べませんからね。

いじめられると、確かにいじめられるのが上手くなるかもしれません。

でもそんなの、損するだけでしかないコミュニケーション(関係性)です。

もちろん、いじめられる中で創意工夫することで、いじめを解決できたら、それが大きな学びにもなります。

でも、どんないじめのケースでも使える万能な方法なんてないでしょう。

ですから、耐えてまで試行錯誤するほどの意味や価値があるかどうかも、人によります。

いじめから逃げない戦略事例

「試行錯誤や創意工夫するために、いじめから逃げない」

ということなら、積極的な動機があるので、いいと思います。

これは我慢ではないですよね。

でも苦しくて苦しくて耐えられないなら、逃げたほうがいいでしょう。

あくまでそれは、平気な人の場合の話ですから。

なにせ苦しくて耐えられないなら、試行錯誤や創意工夫などしている余裕はありませんので。

精神的に壊れてしまうリスクのほうが問題です。

人の役に立つことは必須な社会

この社会では、人の役に立つことが重要です。

なぜなら、これがお金に変わるからです。

これ以外の方法は、詐欺的だったり、強引だったりします。

いい方法とは言えません。

私にとっては、

「人の役に立つことから逃げないために、嫌なことや苦手なことから逃げる」

ということでもあります。

好きなことじゃないと、努力しないし、人の役に立とうって気も起きないでしょ?

ってことです。

競争によって、人の役に立つことのハードルが上がりすぎています。

”好き”じゃないと、厳しい時代ですね。

誰でもできることで人の役に立ち、お金を貰えるんなら別にいいんですけどね。

実際には競争が激化しており、誰でもできることではもはや厳しい時代です。

 

まとめ

何から逃げないのか?が重要です。

何のために逃げるのか?が重要です。

 

逃げ続ける人は、自分でいることから逃げないために、逃げ続けているのかもしれませんし。

 

変わらないために変わり続けるのと、同じようなものです。

逃げると逃げないはセットなので。

”何から逃げないのか”を明確にします。

 

いじめでも、嫌なことでも逃げていいです。

しかし、何のために逃げるのか?

何から逃げないためなのか?

その軸ありきです。

自己責任の人生や、主体性を取り戻すためかもしれません。

その上で、結局好きじゃないことをするかもしれません。

それでいいんです。

あなたの人生ですから。

あるいは好きなことに命を懸けるため、嫌なことから逃げるのかもしれません。

 

好奇心もなく、感性もなく、好きなこともない人が、好きなことをする生き方をするべきかは、大いに疑問であるということです。

むしろ好きなことがなく、好奇心もないなら、誰もやりたがらない仕事をすれば、そこまでのレベルじゃなくても、大いに社会貢献になるでしょう。

その上で、お金ももらえます。

どんな人生を歩むかではなく、どう歩むかです。

それは要するに、依存的ではなく、主体的に歩むということですね。

建設的な行動であるかどうかです。

以上が、逃げることに関する私なりの結論です。

 

逃げるというのは、あくまで建設的な、または積極的な行動です。

仕方なく、依存的に逃げるという意味ではありません。

 

「多くの誰かが私を歓迎し、助けてくれるだろう」

と思って逃げるわけではありません。

 

自分で自由に行動し、学び、建設的に生きるために逃げるのです。