どう見ても不平等です。教育の機会は均等に与えられていない

どう見ても不平等です。教育の機会は均等に与えられていない

教育の機会は、決して平等ではありません。

なぜか?

教育の機会において重要なのは、質だからです。

質が高いのと低いのとでは、あまりにも差がありすぎます。

 

危険な自己責任論

格差が生じるのは、学び続ける人と学ばない人がいるからだという説があります。

そして、実は教育の機会はほとんど平等で、自ら学ぼうとしていないだけという意見もありました。

正直言って、この社会がおかしいという極めて重要な前提が抜け落ちてるので、あまりにも的外れです。

もちろん私たちは、この腐った社会の中で生きていかなければいけません。

ですが、異常なところは異常と指摘します。

自己責任の部分

社会のおかしさと、自己責任の部分はしっかり分けましょう。

そもそも社会がおかしい時点で、平等性は成り立ちませんけどね。

教育以前のところと、教育の質が均等で、初めて機会が平等といえます。

その上でなら、自己責任と言えるでしょうね。

ですが今現在においては、自己責任以前に社会が異常です。

 

それに、そもそも学校の勉強を学んだからといって、社会的に成功できるわけでは全くありません。

学ばないから悪いという自己責任論で、格差を正当化するのは、さすがに暴論すぎるでしょう。

ポイントは、格差の内容ですね。

ゲームのような格差だったら、健全なんですけどね。

人を見下すための格差は、さすがに異常でしょう。

 

貧困

経済的に貧困などの理由で、物理的に機会が不平等なケースがあるのは言うまでもありません。

貧困すぎる場合、親に働くことなどを強制されている場合などは、さすがに教育の機会が不平等です。

食うにも困っているようでは、とても勉強どころではないでしょう。

 

時間があれば平等というわけではない

ただ貧困でないなら、だれもが平等かというと全くそんなことありません。

学校の授業や、家で遊ぶ時間があるからといって、平等であるとは全く言えません。

質が違いすぎるからです。

質の違いというのは、重要なことだと以下の通りです。

  • 自分の才能を見いだせる人が身近にいるか
  • あるいは自分で好きなことや才能を見出す機会を与えられたか
  • 勉強の仕方は自由であることを教えてもらえたか
  • 才能や能力を訓練する機会があったか
  • 勉強は何のためにするのかを教えてもらえたか
  • いろいろな生き方があること、戦略や戦術があることを教えてもらえたか
  • 個性や才能を育んでもらえたか
  • 一方的に押し付けず子供を尊重する機会だったか

 

学ぶ人は恵まれているという前提

時間があったのだから、勉強しようと思えばできたはずというのは、あまりにもナンセンスです。

私も学習意欲が貪欲なので、気持ちはわからなくもないです。

ですが学べている人は、ただ恵まれたにすぎません。

人や才能、環境、仕事、上司、友達、健康、社会、事故や災害、精神力、好きなこと、学ぶ楽しさなどに、ただ恵まれていたという前提がすごく大きいです。

このことを理解している人が、果たしてどれほどいるでしょうね。

もちろん、努力や学びは、して当然と考えるべきですよ。

ただ、それができることが、そもそも恵まれているのです。

そうしようと思えることが、恵みです。

もちろん恩恵は、最大限活用すべきですが。

 

前提条件が違いすぎる

人によって向いていることも向いていないことも、やりたいことも目指したいこともすべてが違います。

親に医者になれと、プレッシャーかけられているかもしれません。

いじめられていたら、勉強どころじゃないでしょう。

人それぞれ前提条件が違うのに、完全に学ぶことも学ばないことも自己責任というのは、さすがに机上の空論過ぎるでしょう。

何の意味もないですし、何の解決にもなりませんし、非現実的すぎます。

教師がダメなケースもあるでしょうが、そもそも教育内容もおかしいです。

 

格差が問題

それから、問題の本質は教育の機会の均等ではないです。

人の上に人が立つというのは、好き勝手していいという意味ではなく、権威ある立場で責任を全うすることを委託されただけにすぎません。

権力は借り物で、好き勝手に乱用していいものではありません。

乱用する人間がいるから、格差が問題になります。

人間の質こそがほんとうの問題です。

誰も差別せず、必要な分だけ残して他人に資源を配るほど立派な人間なら、格差など全く問題になりませんからね。

 

生存権こそ均等の本質

「教育以前のところが平等であること」が、教育の機会均等のための必要条件と前述しました。

教育以前のところとは、概ね生存権のことと言えるでしょう。

生存権が保障されて、初めて機会が平等といえるでしょう。

いつでも学ぶ機会や、就労する機会が持てるということですから。

そもそも、子供のころに学んでおかないとダメということ自体、おかしな話です。

これはあまりにも異常ですよ。

おかしなカルト宗教じゃないんですから。

 

ましてや、努力したから、学んだから人を差別していいと思っていることも異常ですね。

社会的地位というのは、あくまで社会のために、権利を借りている状態です。

決して自分が偉くなったのではありません。

 

 

福沢諭吉

福沢諭吉は、人は平等というが、実際には格差があり、それは学びによって生じるとしています。

これは有名な学問のすゝめですが、そこであの有名な名言がありますよね。

人の上下に人を造らず

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」

これです。

これが正しいのは明らかでしょう。

この意味をちゃんとしっかり理解するべきです。

上下に人を造っているのは人

これは、天が作っているのではなく、人が作っているということを暗に指摘しています。

つまり、人の上に人を造り人の下に人を造っている、この社会がおかしいということです。

福沢諭吉は、ここまで指摘できていなかったのでしょうかね。

ちゃんと読んでいないのでわかりませんが。

学びによってある程度何らかの差が生じるのは致し方ありません。

ですが、現代社会の格差は、明らかに異常でしょう。

差別は自然の法則ではない

この異常な社会に適応した人は、この価値観が当たり前になります。

学ばない者を、差別していいのだと勘違いしてしまいます。

まるで自然の法則のように感じてしまいます。

ですが、これはこの社会が異常なだけです。

地位や権力の本質

地位や権力において差が生じるのは致し方ありませんが、それは決してその人が偉いわけではないです。

あくまで、社会のためにその配置が、望ましい可能性が高いだけにすぎません。

決して、実際に人の上に立ったわけではなく、仮の立場として立っているだけにすぎません。

組織内とか、プロジェクトの枠組みとか、社会の枠組みですね。

退職すれば、ただの無職の人間でしかありません。

金持ちなら、ただ金持ちなだけです。

人の上に立つ人間は、このことを自覚していないといけません。

格差によって人間の差別があるなら、それはその人間や社会が異常なだけです。

自分自身は無関係

社会的地位にいるからと言って、その人間自身とは無関係です。

なぜなら、その地位や権力は、他人から与えられるものだからです。

さらに、その権力に従ってくれる(協力してくれる)人たちがいるからです。

 

地位があるからといって、その人間がすごいわけでも、偉いわけでもないです。

同じ人間であることに、変わりはありません。

別にほかのだれかがその地位にいてもいいわけです。

能力があるなら、全員がローテーションしてもいいわけです。

ただの仮の役割でしかなく、それは自分自身の価値とは無関係です。

自分が認められているのではなく、その地位や肩書、権力が承認されているにすぎません。

 

修行とはき違えてはいけない

もう一点、教育としてものすごい誤解されていることがあります。

それが、修行との混同です。

修業とは

やりたくないことをやらせることや、勉強のモチベーションを引き出してあげることは教育ではありません。

これは無意味ですし、教育とは言えません。

修行に当たります。

もちろん修行としてやるのはいいのですが、当然教育とは異なります。

教育と修業は別物です。

指導者はえらくない

修行するには、修行の指導者が必要です。

厳しくないと、修行にならないからです。

だから、誰かに指導役をやってもらうのですが。

ポイントは、指導している人間が、偉くなったわけではないんです。

もちろん、修行を乗り越えてる人かもしれません。

ですが、だからといって偉いわけではないのです。

自分が偉いと勘違いしないことも、修行の1つなんです。

人の上に立つ人間は、このことを理解していないといけないでしょうね。

 

天は一切、人の上にも下にも人を造りません。

人の上下に誰かがいたら、それは例外なく人間が造ったものです。

たくさんのハンデを抱えた人たちが、世の中に存在しますが、平等という認識は可能です。

もちろん、違いはありますし、それは認めなければならないことです。