血液型診断の否定などから見られる間違った科学の用法

血液型診断の否定などから見られる間違った科学の用法

血液型は、科学的な根拠があるわけではありません。

しかし、だからといって科学的に否定されているわけではありません。

科学に限りませんが、肯定には肯定の根拠が、否定には否定の根拠が必要です。

 

現状では、科学的に否定はされていません。

まぁ、統計学的には否定されているとか肯定されているとかいう話もありますが。

統計学は因果関係とは関係がないので、スルーします。

 

問題は、否定されていないのに、科学者が否定することです。

これは、非科学的な行為ですね。

当然ですが、根拠が必要なのです。

もちろん、血液型診断は証明されていないから、用いることも間違いなのですが。

否定することも間違いなわけです。

これでは、オカルトな人たちと同じように、非科学的な立場になってしまいます。

科学的な思考をしているという思い込み

科学者は、きわめて懐疑的に、そして中立的に物事にあたるべきです。

そうですよね?

そうであるなら、自分が科学的な思考をしているということにも、疑いをもち、科学的に臨むべきなのです。

 

オカルトな人も、科学者も、同じ科学などの法則に基づいて思考をしています。

思考は電気信号という、れっきとした科学的現象なわけです。

電気信号の違いを、科学的に説明し証明することで、オカルトな人たちの主張がおかしいとか、非科学的だというならわかります。

ですが、現状では、証明されているように思えません。

誰が思考していようとそれは、れっきとした科学的現象でしかないわけです。

 

血液型診断が、疑似科学であると主張するのは問題ありません。

ですが、血液型診断が間違っていると主張するのは、飛躍しすぎています。

これは血液型診断の否定ですから、否定の証明が必要です。

 

あるいは科学者は、肯定派の思考がおかしいことを、科学で証明しなければいけません。

絶対化する信者たち

科学については、かなり信者が多いように思えます。

1つの価値観だけが正しいと思うのは、宗教と同じです。

日本人は、1つの価値観しか認めない人が少なくありません。

科学だけが正しいという考え方は、非科学的なわけです。

 

科学に触れていると、ある概念を絶対化しやすくなる罠があります。

その概念とは、再現性や偶然です。

偶然は、再現性とかかわりがありますので、実質的には再現性といってもいいですが。

 

再現性が絶対化されやすいのですが、そもそも法則のすべてに再現性があるとは限りません。

もし神が存在したとすれば、そこに再現性を確認することはできません。

神は、恣意的にも、意図的にも何でもできるという前提ですが。

それに再現性が50%の法則とか、あってもおかしくありません。

これは、科学では偶然として片づけられます。

 

また、人間を見れば、能力次第で再現性は変動します。

勉強ができる人なら、同じような難易度のテストでそれなりの点数を、ほぼ毎回とれますからね。

これも思考など脳内活動という科学的現象によって、もたらされたものです。

 

宇宙にも、このような法則があるかもしれません。

実際、時間は主観的なものではないかという説もありますし。

 

もちろん学習する場合、科学は踏まえるべきです。

科学的な知識や理論の学習は、怠るべきではありません。

ですが、科学はあくまで1つの考え方でしかありません。

確かにこの世の法則すべてを含めて科学と呼ぶなら、科学はいずれ万物の法則を示すことになるでしょう。

 

ですがこの世界では、科学を探求しているのは人間です。

人間の言うことは、常にあてにならないのです。

徹底的に証明された科学を信じるのは問題ないのですが、科学者を信じてはいけません。

というか人をまず信じるべきではありません。

なぜならこの態度は、非科学的だからです。

科学者や自分自身ですら疑うのが、本当の科学者でしょう。

 

本当にこの認識は正しいのか?この結果は正しいのか?

そうなったとき、オカルトをむやみに否定せず、しかし肯定もしない状態になります。

科学的な勉強をして、知識として習得はするけど、鵜吞みにせず科学とは相反する知識も、偏見を持たずに習得するような状態になります。

これこそが、本当の科学者たる態度だと思うのです。

 

徹底的な、中立主義、懐疑主義です。

もちろん現実には、人間は一切何も信用せずには、生きていけません。

明日もお金が使えること。

明日も科学の法則が不変であること。

給料日にちゃんと給料がもらえること。

神の存在の有無。

死後の世界の有無。

友情や愛情。

 

人それぞれ信じているものは違います。

ですが、世の中は無常です。

無常すら疑うべきですが、安易に否定すべきでもないわけです。

ただ知識を知識として、用いるということです。

無常という知識を前提として生きるのも、もちろん問題ありません。

無常を信じるということですね。

ですが、それは無常に反する概念や体系を否定すべき理由にはなりません。

科学的な根拠や、否定すべき体系に基づいた矛盾的根拠などが必要ということです。

血液型診断も同じで、信じることを否定するなら、否定の根拠が必要なのです。

 

差別は差別として

なお、私は差別的な用法には反対の立場をとっています。

これは科学的な話ではなく、社会としての在り方ですね。

現状では、科学的かどうかは無関係です。

なぜなら、科学的に証明された差別は存在しないからです。

差別は、科学的であってもすべきかどうかは別の話ですが。

 

世の中にある差別では、違いが科学的に明らかな例は多数あります。

例えば肌の色や人種の違いですね。

肌の色の違いや遺伝子の違いは、科学的に明らかです。

そうですよね。

光の周波数の違いで、見える色が違います。

だからといって、差別すべきではありませんよね。

学歴差別すら、科学的とは言えないでしょう。

 

A=Bの部分を科学的に証明できれば、差別してもいいということになる可能性はあるかもですが。

現状、差別としてのA=Bが証明されたものは、1つもないでしょうね。

特に差別は、解釈を含んでいるため、私たちの認識によって引き起こされます。

 

ナイフで物を切断する場合、原子や分子の結合を切っているだけです。

科学的にはそこに善悪も、正否もありません。

ですから、本質的には科学と差別は無関係なのです。

 

血液型診断を否定すべきではないのですが、差別は否定されるべきです。

ポイントは、差別の道具として血液型診断を用いただけであり、その用いた人が差別の原因なのです。

これは科学的に明らかではないでしょうか?

ですから、差別は差別として啓蒙していく必要があるでしょう。

科学的であるかどうかは、差別する人たちにとって重要ではありません。

 

主に差別の被害にあいやすいのはB型の人だと思います。

「B型は自己中心的だからイヤ!」

という人がいたりしますが、この発言こそ自己中心的に思えるのは私だけでしょうか。

科学的に証明されていない以上、こういった主張をするべきではありません。

言葉遊びや、冗談として言うならいいと思いますが。

すべての人が、冗談として用いるなら、差別的な問題は生じないんですよね。

科学的であるかどうかとは、本質的には無関係なのです。

だから、科学者は安易に否定してはいけないのです。

安易に否定することは、非科学的な行為だからです。

 

一方で科学者も含め私たちは、なんといっても、差別そのものはしないように意識していくべきでしょう。

科学とは無関係のところで、私たちが差別をするかしないかの問題なんです。

自ら科学的現象として差別を引き起こしています。

差別的な思考という電気信号です。

思考をしても、それをしゃべらないことは可能です。

注意を怠らないことが大事ですね。