日本の社会は異常?おかしいところをまとめてみる

日本の社会は異常?おかしいところをまとめてみる

私は子供のころは、自分がおかしいのではないかと思うことが多かったです。

成長し大人になって、いかに日本が異常かということを徐々に理解してきました。

まぁ日本だけではありませんけどね。

世界中それぞれの国で、おかしいところはあると思います。

私たち人間の未熟さが引き起こすことなので、どの国でもあるのは仕方ありません。

ですが、ここでは日本に限定します。

 

この社会がまともであると、特に何も考えず思い込んだのは反省すべき点です。

この社会は、本質的なことをもう少しわかっていると思っていました。

例えばブランド物は、ただ身に着けている物の価値が上がるだけで、自分の(本質的な)価値は1円も上がらないことを、誰もがわかっていると思っていました。

これはまさに甘さでした。

この辺りは、反省しなければいけないと学びました。

多くの人が本質を見抜けないというのは、社会としてかなり不健全になります。

よって今の社会は、かなりおかしいです。

ここを深堀していきます。

ちなみに正直言って長いです。

集団主義と同調圧力

何といっても日本の不気味さナンバー1じゃないでしょうか。

集団主義と、それにより生ずる同調圧力は、異常なほど異常です。

個性をつぶすことこの上ありません。

一体どれだけつぶせば気が済むのでしょうか^^;

 

護船団方式で、「みんな」に合わせることが重視されます。

確かに組織のためや貢献性を、最低限~ある程度求めることはいいと思います。

しかし、いくらなんでも適応させる動きが過剰ですね。

人をコントロールしようとしすぎです。

出る杭を絶対打つという、強烈な意志を感じます。

もうちょっと自由にやらせてほしいですね。

 

異常かつ矛盾した論理

日本は、感情論および感覚論に基づき、集団主義を運営している傾向にあります。

その結果、すごく矛盾します。

「自分で考えろ」と言われれば、「勝手に考えるな」と言われます。

もう少し論理力か、教える力を身に着けてほしいところですね。

 

「謙虚になれ」と、傲慢に言ってくる人もいます。

せめて「謙虚にしていただけないでしょうか」と、謙虚に言うべきですね(笑)

 

「わがままをいうな」という最大のわがままもあります。

まぁこれは私たちの多くが、言いがちかもですが(笑)

他人に対して一切わがままを認めないというのは、わがままを言っていいのは自分だけということになります。

全てのわがままを超越した究極のわがままです。

「わがままをいうな」という人は、”私は究極の自己中心的な人間である”と、自己紹介しているようなものですね。

私たちは、わがままを言い合う中で、コミュニケーションをしていくべきではないでしょうか。

まぁ他人のわがままに、イラッとすることがあるのはわかりますけども。

もちろんわがままの内容を無条件で受け入れるべきという話ではありませんよ。

だからといってわがままを言う人をひたすら拒絶するのではなく、お互い歩み寄っていくことを基本としていきましょうということです。

 

また、一切迷惑をかけてはいけないというのも、意味不明な論理です。

人は生きているだけで、食料、水、酸素、土地を消費、占有し続けます。

迷惑をかけてはいけないなら、この論理の主張者は、直ちに死ななければいけません。

誰かに説いている暇はないでしょう。

私たちは迷惑をかけていることをまず自覚し、その上で何をどうしたらいいかを考えるべきなんです。

それに、迷惑をかけるなという主張も、誰かの迷惑になりかねませんからね。

迷惑をかけるなという論理ではダメなわけです。

もう即矛盾しますから。

「迷惑をかけあっているけど、お互いできるだけ迷惑をかけないようにしよう」

という主張でなければ、筋が通らないのです。

 

しかし何といっても異常な論理は、被害者が悪いというものではないでしょうか。

まぁ海外でもあるでしょうけど。

いまだにこれは、意味不明です。

「迷惑をかけてはいけない」という論理が蔓延る日本社会で、一番迷惑な目にあっている被害者が責められるのですから、筋が1ミリも通っていません。

ましてや「いじめられるほうが悪い」というのは、もはやギャグの領域でしょう。

自己責任の論理では、いじめの責任はいじめた人間にあります。

なぜ日本では、こんなに論理的に矛盾しているのでしょうね。

行為については、行為者の責任なわけです。

いじめという行為は、いじめた人間の責任でしょう。

万引きしたら、万引きした人間の責任で、店側の責任ではありません。

被害者が悪いというのは、一方的な論理です。

異常なんですが、なぜかこれが社会でも共有されている節があります。

要するに責任転嫁なんでしょうけど、例えばいじめられるほうが悪いというのは、学校にとっても都合がいいのが難点ですね。

自己責任の論理で被害者に責任を転嫁するという、ぶっ飛んだ考えが珍しくありません。

加害行為は加害者の責任なんですけどね。

 

もちろん被害者がわるいという論理を用いると、いじめる人間に対しても、「やられる方が悪い」という論理で仕返しできるので、便利は便利ですが^^;

当然ですが、善い行いをすることは善で、悪い行いをすることは悪です。

これは、当然の論理です。

いじめが悪いなら、いじめるほうが悪いのです。

しかしながら、なぜかこんな当たり前の論理すら通用しないのが日本です。

論理力のなさはピカイチじゃないでしょうか。

 

「嫌なことをしなければならない」という、意味不明な論理もあります。

好きなことやったほうがいいのは、当たり前だと思いますけどね。

好きなことをやっていく中で、面倒なこととかもやらないといけないということならまだわかりますが。

 

以上のように、論理的に矛盾しまくっていて、もはやまともに機能していない論理が多くみられます。

これこそがまさに、集団主義の闇です。

同調圧力により、意味不明な論理に従ってしまうわけです。

実質洗脳みたいなものです。

集団主義は、本当に正義かどうかなんてどうでもいいのです。

集団から外れるか外れないか、これこそが正義の基準だからです。

まるで宗教みたいですね。

本質ってものを、社会全体でもっと見るようにすることが、重要かと思います。

 

価値観の多様性

集団主義、同調圧力、異常な論理とも関係がありそうですが、日本では価値観の多様性があまり認められません。

幸せな人生にしか価値がないという思想は、今苦しんでいる人をさらに苦しめるような、暴力性を帯びた思想です。

自分を正義と考える人間ほど、悪行をする可能性があります。

なぜなら、自分は正義なのだから、何をしてもそれは正義だと勘違いするからです。

 

「いい大学からいい企業に就職して、結婚するのが幸せ」

というような、幸せな人生観も固定されがちです。

やりたいことをやっている人間のほうが、幸せだという人は明らかに少なくないと思いますが・・・。

なぜか、このような人生しか、幸せだと認められないのです。

 

このように1つの価値観しか認められないというのは、極めて異常です。

まさに宗教ですよ。

神はいると思っても、神はいないと思っても、自由なはずです。

ですが、私たちは1つの価値観しか認めないことを、暗に刷り込まれています。

ですから私たちは、そのような行為をしがちです。

 

自分がどのような価値観を持つかは自由です。

実際、私たちは自由に価値観をもてますよね。

ただ単に、それを誰に対しても認めましょうというだけの話なんです。

ですが日本では、なかなか多様性を認められないのです。

人によって違うことは当たり前です。

この「人それぞれ」という当たり前のことを、認められない人たちが多いようです。

 

教育と適応

ある意味最も異常で、最も気づきにくいところです。

教育の目的が、すり替えられています。

多くの人が、これに染まってしまっています。

教育の目的とは、社会に適応させることである、と認識している人は世の中多いでしょう。

これこそが、洗脳です。

なぜなら、本来の教育とはむしろ正反対の目的だからです。

本来の教育の目的とは、「本人の個性や能力を引き出し、それを活用して社会で活躍できる方法を見つけること」です。

徹底的に極められることを見つけ、努力をし(ここまで個性を伸ばすことを含意)、自立および自律して、社会で活躍できるようにすることでしょう。

教育には、絶対条件として、本人の能力を引き出すことや、個性を伸ばすことが、含意されていなければいけません。

もちろん、部分的に個性をそぎ落とすことが、有効な場合もあるかもしれませんが。

 

問題なのは、社会へ適応させることが目的だと、個性はもちろん才能すら削ってでも適応させようとすることです。

これは、本来の教育を無視しています。

それに、社会への適応が目的ととらえている時点で、まさに社会の洗脳なんですよ。

なぜなら、私たちの人生の目的は、社会への適応ではないからです。

生まれた時から、社会に適応したかったんだーって心の底から思えるなら、それもいいでしょう。

私たちは、社会に適応するために生まれてきたわけではないと、多くの人はわかるはずです。

ということは、今までのどこかで、社会への適応が正しいということを刷り込まれたのです。

まさか、自分の心の中から湧き出る思いがあって、社会への適応を目的としたわけではないでしょう。

だから、洗脳なんです。

適応は、ただの手段です。

よって、適応しないというのも、手段です。

適応しないという生き方があります。

健全な社会なら、適応してもいいのです。

しかし今の狂った社会を鑑みれば、いかに適応せずに社会で活躍するかを、教えるべきでしょう。

(本来の)教育は、適応せずに社会で活躍できるようになることを、むしろ歓迎します。

なぜなら、適応しないということは、その分だけ新たな方向性を、社会にもたらしているからです。

新しい生き方か、新しい働き方で、新しい価値を、社会に提供しているんです。

こうして、社会はより良い方向へ、試行錯誤しながらですが前進し続けます。

 

健全な社会になったら、必要な適応は最小限になります。

アナ雪ではありませんが、比較的ありのままで活躍できるなら、その社会は健全です。

そう思いませんか。

適応することが多すぎるほど、その社会は健全から遠いんです。

この社会は、要請する適応が多い上に、内容がおかしいわけですね。

犯罪行為や悪意のあることなどは、もちろん取り締まられなければいけませんが。

 

ちなみに私がこの社会がまともだと思ったのは、適応が修行だと思ったからです。

比較的ありのままで暮らせる社会だけど、子供のうちは修行するという流れだと思ったんです。

  • いじめられるほうが悪い
  • 失敗したり間違ったりしてはいけない

こういったことも、修行だと思ったのです。

まさか修行ではなく、本当にまともな教育をしているつもりだったとは、思いませんでした。

体罰とか論外です。

間違ってはいけないとか、正気でしょうか。

修行としてならわかるんですけどね。

といっても、勉強したことや経験したことが無駄になるわけではありませんよ。

 

洗脳システム

前述したように、健全な社会では、適応の要請が最小限となります。

今の社会は異常なので、適応の要請が過剰です。

すなわち、よく言えば社会への適応ですが、悪く言えば洗脳になるんです。

例えるなら、宗教団体に適応しようとするようなものです。

これは実質、洗脳されることと同義ですね。

「ゴキブリや虫などを一切殺してはいけない」という、某宗教団体がありました。

退治したい人は、当然のように退治しますよね。

でも適応するというのは、これに従うことなんです。

もう洗脳としかいいようがないでしょう。

ですが、この社会は、平気でこのレベルのことを要請してくるわけです。

「いじめられるほうが悪い」などは、1つの例です。

こうしてみると、いかに頭がおかしいかというのを、ご理解いただけるのではないでしょうか^^;

 

ではなぜ、私たち多くの人が、適応することが当たり前であるかのように、洗脳されているのでしょうか。

この始まりが、学校教育なんです。

学校の教育は、奴隷生産工場ともいわれるぐらいひどいものです。

自分で思考することをうばい、「みんな」に合わせます。

個性を認めず、正解があることを前提とした教育です。

もはや調教の領域です。

軍隊かよって突っ込みたくなるレベルです。

教育は社会に適応させるためのものという洗脳が、教育によって行われるわけです。

これが続いていく内に、気づいたら新卒として就職しますよね。

しかしまさにこの新卒システムこそ、洗脳では重要な存在です。

洗脳には恐怖という感情が最も適していることは、ご存知の方も多いでしょう。

いい大学に行かないと終わりであると、学歴社会に恐怖しながら大学受験をしたわけです。

今度は新卒を逃したら終わりという洗脳により、更に恐怖が生じ、就職しようとします。

就職後はクビになったら終わりという恐怖が生じ、身を粉にして働き始めるわけですね。

まさに奴隷量産システムが機能しています。

タダより高いランチはないといいますが、新卒も同じですね。

何の実績もないような人間を、なぜ正社員という破格の待遇で迎え入れるのでしょうか。

ここで、ラッキーなので感謝しましょうと言ってくるところは、ただ洗脳してきてるだけです(笑)

当然、企業にとっては大きなメリットがあるからです。

そのメリットとは、洗脳できることなんですよね。

白紙だからとか言われることもありますが、ただ白紙なだけなら役に立ちませんよ。

契約社員で迎えればいいだけの話ですから。

もともと技術や人材の流出を防ぐためだったようにも思えますが、雇用主にとっての理想は、労働者がこの会社以外のところで働けないことです。

ですから、ローカルルールなんかも転職を妨害するので、取り入れる理由がありまくります。

一度新卒システムが出来上がると、中途採用者も採用されづらくなります。

これにより、囲い込みが成立します。

洗脳しやすいから、新卒採用をするわけです。

大したメリットじゃないと思いますか?

これは、極めて大きなメリットです。

大きすぎて表現できないぐらい、でかいメリットです。

どんなに優秀な人間であったとしても、転職されたら困ります。

技術と人材が流出しているわけですから。

折角今までコストかけてきたのに、またイチから採用しないといけません。

合法的に他人をコントロールする一番効率のいいやり方が、洗脳なんです。

ここですここ。

合法的に他人をコントロールできるということ。

これは、ものすごい大きなメリットです。

嫌なことでも、他人が自ら仕事してくれるんですよ。

「嫌なことでもしなければならない」

って、自ら言い出すのです。

雇用主としては、素晴らしいメリットです。

そういう意味では、洗脳社会が出来上がる理由しかないですね。

何の実績もない人間が、新卒として正社員で迎え入れられるのはラッキーというのも、まさに洗脳なわけです。

新卒採用のない国は、全員のたれ死ぬとでもいうのでしょうか。

実際には、アルバイトなりなんなりして、実力を高めていき正規で就職したり、独立するのでしょう。

これが普通ですし、当然だと思います。

別に新卒で採用されるのは、全然ありがたくありません。

もちろんこれを踏まえた上で、個人的に感謝するのは問題ないですよ。

 

新卒採用も、需給の一致という当たり前の話なんですが、採用する人も会社の論理に洗脳されているんですね。

まともな会社であれば、あまり問題にはならないかもしれません。

絶望的な話だったように思えるかもしれませんが、洗脳されないで就職することも概ね可能です。

ただ、まともな会社であることや、適応しないでいられる技術や能力を要します。

あと多分メンタルの強さが必要ですね。

 

ブラックな企業が調子にのるのも、洗脳のおかげでしょう。

「就職しなければ大変でみじめで命の危険がある」

「いい大学に行き、就職して結婚するのが幸せ」

これらは明らかに洗脳です。

もともとすでにあるこれらの洗脳を利用して、更に洗脳をしているのがブラック企業なわけです。

 

これから先の生き方

生き方は自由ですし、幸せの定義も人それぞれです。

これらは世間とか、外部によって決められるものではありません。

生き方も幸せ(の定義)も、自分で決めなければならないものです。

まさにこれらこそが、本当の教育で扱われるべきことだと思います。

 

日本社会があまりにも異常であることを知っておきながら、適応しようとするのは難しいです。

宗教団体が洗脳だとわかっているのに、適応したいとは思いませんよね。

本来の教育では、適応しないで生きることが教えられるべきでした。

この社会が異常だからですが。

健全なら、適応していいんです。

社会や周囲の言うこと聞いてれば、健全な人生をおくれるでしょう。

ですが、この社会が異常となると、話は別です。

もちろん、全部が全部異常ってわけではありませんよ。

まともな環境に恵まれれば、人生において問題はないでしょうから。

 

どの国も、異常な部分とまともな部分があります。

何が異常で、何がまともか、今一度正確な判断が必要です。

その上で、適応しない生き方を、模索していくしかありません。

仕事をするには実力が必要です。

実力をある程度身に着けなければいけないのは、致し方ありません。

これは適応ではなく、ただの修行です。

わけのわからない同調圧力に従うことは洗脳ですし、異常としか言いようがありません。

これは宗教団体と何ら変わらないわけです。

そうではなく、純粋に仕事に必要なことを見抜き、そこだけ習得すれば問題ないでしょう。

頭おかしい組織なら、さっさと辞めたほうがいいです。

修行として取り組みたければ、取り組みましょう

修業は必要ですよ。

練習や努力と言い換えてもいいですが。

ちなみに技術や能力を持っていると、ある程度は適応せずにいられます。

人間関係のスキルはわかりやすい例ですね。

おかしな要求をされたときに、かわすスキルなどです。

こういった適応しないでいられる能力やスキル、経験や人脈があると、比較的社会の中でも活躍しやすくなりますね。

また、仕事の実力さえあれば、問題ないところもあるでしょう。

 

あとは、技術革新によって、社会が大きく変わることを期待するのも手です。

技術が進んでいけば、私たちは新たな生き方ができる可能性が、どんどん増えていくでしょう。

監視カメラがある世界とない世界では、だいぶ違いますからね。

今はインターネットが出てきてますから、さらなる違いがあります。

私たちの意識および無意識が、インターネット社会に適応していくことで、ある程度成長するでしょう。

一方で適応しないでいた人が、また新たな技術や意識を呼び起こし、人類や社会は成長していきます。

 

この記事では、適応しない生き方があると書きました。

それは、換言すれば自然体で生きることや、自分の軸をもった生き方です。

そのために、何か(好きなことなど)を続けて極めるのか、苦手なことを克服するのか、ある個性を伸ばすのか、個性を才能に変えるのか、才能をより伸ばすのか、別の技能を身に着けるのか、人を喜ばせる生き方をするのか、などの戦略や戦術が必要です。

本来これは教育で扱われるべきことですが、私たちはこれを自分でやらないといけません。

 

自分の人生は自分のもの

教育内容も問題ですが、社会の異常性のほうが問題です。

健全な社会なら、社会に従っていれば問題ありませんからね。

社会の異常性が問題なのです。

狂った社会の中で、どう生きるかを、自分で見出していかないといけません。

自分という名の意志の力を、用いることです。

自分の人生は自分のものです。

これは論理的に当然ではないでしょうか。

他人のために生きることは、1つの人生の使い方です。

しかしそれは、社会への適応ではなく自らの意志で、社会とは関係なく決断した結果であるべきです。

そして、「自分の人生は自分のもの」という論理を、他人にも認めることです。

これが健全な社会ではないでしょうか。

お互いの人生を尊重し、お互いに歩み寄っていくのが、本来あるべき社会のはずです。

こうしてできる社会は、「いじめられるほうが悪い」という意味不明な論理を、押し付けるでしょうか。

 

今の社会は、適応という名の洗脳で、ムリヤリ解決を装います。

仕方ないんだと、事実なんだと思い込ませてきます。

おかしいとしか、言いようがありませんね。

自らの意志の力を持たなければ、適応しないという生き方はできません。

適応しない自分の軸があるから、いろいろ柔軟に(表面的に)適応する生き方ができます。

でも、自然体の自分は残していますし、だから意志の力を発揮できます。

人によって、適応の度合いなどは違うでしょう。

違って当然なのです。

苦手なことでは、ほとんど適応しないでいられないかもしれません。

コミュニケーションが苦手なら、バランスをとれず過剰適応してしまう可能性があるように。

 

自らの意志で生きることが、本来の人生です。

この社会には、この意志の力を奪うような狂った部分があります。

自分の人生については、自分で決めるべきというわけですね。

ここを前提として手伝うのが、本来の教育と言えます。

どの程度適応するかとか、何をどのように努力するかとか、どういう生き方をするかとか、自分で決めるべきことなわけです。

社会や赤の他人が、決めていいことではありません。

まともな教育をしてくれる先生や信頼できる人などと一緒に、自らの意志も含めて決めるべきことです。

簡単ではありませんが、自らの意志でこの狂った社会を生き抜いていきましょう。