資本主義から脱却する方法とは?

資本主義から脱却する方法とは?

資本主義では、小さな役立ちが無価値とされます。

コンビニで後ろからくる人のためにドアを開けたまま持っておくなど。

こうした小さな役立ちは、資本主義的には無価値なわけです。

しかしこういったことこそ、社会として大事だと私は思っています。

もちろん余計なお世話や、過干渉などには注意しないといけませんけどね。

 

この記事では、資本主義ではない価値観や生き方を扱っています。

資本主義から脱却する方法ですね。

今までの価値観体系から脱するというのは、脱洗脳に近いかと思います。

なにせ洗脳が生じやすい宗教も、1つの価値観体系であることが多いからです。

よって、難しいのですが、お金にとらわれたくない人には参考にしていただければ嬉しいです。

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お金以外の価値観に注目して脱却する

資本主義からの脱却は、価値観体系の変更にあります。

好きなこと、嫌いなこと、得意なこと、苦手なことなどがありますよね。

これらすべてをお金のために用いるのが、資本主義に染まった結果生じる価値観体系です。

逆に言えば、価値観の優先順位を変えればいいわけです。

お金の恐怖にとらわれている人は、資本主義からの脱却が難しくなります。

価値観の優先順位を変更できないからです。

恐怖を感じない程度に、まずお金を稼ぐなり出費を減らすなりするのが先ですね。

仏教などの宗教もワンチャンあり

いきなりギョッとするかもしれませんが(笑)

例えば仏教は、お金儲けを禁止しています。

資本主義に染まる以外の生き方がわからない人向けの、人間としての生き方を提示するのが本来の宗教です。

しかしご存知の通り、宗教は金、権力を求め、果ては戦争をするなど、本来の役割を失っています。

まともな宗教ももちろんあるとは思いますが、宗教そのものが1つの価値観体系にもなっています。

1つの価値観体系に染まることは、実質洗脳といっても過言ではないでしょう。

現実には宗教に触れる場合は、気をつけないといけません。

ただまともな宗教さえ見つかれば、宗教も生き方の指針になり得ます。

好きなことを優先する

好きなことを、お金とかよりも優先するわけです。

嫌いなことや苦手なことを、お金のためにすることはなくなります。

お金を稼ぐのは、資本主義だからというだけの理由になります。

要するに「ついで」です。

好きなことをするだけで幸せという人向けです。

お金に困る可能性は当然高まります。

また、不安定になりやすい価値観、生き方です。

人の役に立つことを優先する

人の役に立つために、得意なことや好きなことをするという考え方です。

嫌いなことや苦手なことをするとしたら、お金のためでなく人の役に立つためというわけですね。

これは健全な価値観ながら、資本主義とも相性がいいです。

なにせ需要がないと、ビジネスは成立しませんから。

ただし、人の役に立つために嫌いなことや苦手なことをするというのは、お金のためにするのとあまり変わりません。

人の役に立つことを最優先できるならそれに越したことはないでしょうが、現実には難しいです。

好きなこと×人の役に立つこと

私はハイブリッドで、この2つを優先するのが良いかなと思います。

死ぬほど好きじゃなくていいです。

めちゃくちゃ人の役に立たなくていいです。

そういう意味ではYoutuberもブロガーも、ゲームで稼ぐのも、ここに入ると思います。

衣食住みたいに必須なわけでもなく、ゲームを作るみたいにオリジナリティある生産をしているわけでもありません。

それでも、好きなことをしてある程度の付加価値を作れば、人の役に立てます。

好きなことをたくさんやって、人の役に立つことを見つけるか。

人の役に立つことを先に知って、好きなことをそのレベルに鍛えるか。

どちらにせよ、好きなこと×人の役に立つことに、意識を集中するとよさそうかなと。

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神への祈りという生き方

1つの生き方、価値観体系の参考として紹介します。

神への祈りというのは、実はかなり本質的に意味があります。

私も自分なりに実践してみた経験談です。

まず1つは、自分の中に神を呼び起こす意味がありそうという点です。

これは換言すれば、自分で考え自分で行動するようになります。

よく神はその人の中にあると言われます。

これは要するに、自分の神性が目覚め、自ら親切とかするようになるということです。

でも人は、自分を信じることが難しいです。

その場合、まずは外部に神を投影(偶像化)して、信仰することで、自分の神性を目覚めさせるのが本質ではないかなと。

すなわち自分で考え、自分で行動するようになることがある意味では真の目的です。

神への祈りで資本主義的価値観から抜け出す

もう1つは、資本主義的価値観からの脱却です。

お金のためという価値観から、神(への祈り)という価値観になります。

嫌なことがあったとしたら、一般的にはどうするでしょうか。

ふつうは怒ったり憎んだり、仕返しをしたりします。

金銭を損したら、賠償させるのが法も含めた資本主義的価値観です。

でもそこで神への祈りをするのは、どういった意味があるでしょうか?

私は自主的な行動が入っていると思います。

怒りや憎しみなどの反応および反発の前に、自主的な行為が入ります。

依存か主体性かは本人次第

これは主体性とか、自立性が育つように感じます。

これにより、資本主義の価値観からの脱却にもつながるように思えます。

お金のためというとらわれから、神への祈りで主体性を取り戻せるということです。

悲しい時も怒りを感じた時も苦しい時も、神への祈りは少なくとも、反射的に何かをしていません。

悲しかったり苦しかったりすると、やけくそになったり、他人を傷つけたりしやすいです。

そこに神への祈りという行為が入ることで、踏みとどまるわけです。

わりと主体的な作用はあると思います。

一方で依存している場合、どうして救ってくれないんだという風になりやすいですね。

しかし例え依存があっても、神への祈りを続けていれば、主体性が生じてくる可能性があります。

神を騙る”人間”には注意すべし

神への祈りを生き方の1つとして参考にする場合、注意点があります。

宗教では人間が神をかたります。

「〇〇という神が、人を傷つけろとおっしゃったのだ」

みたいな感じです。

こういうのは洗脳ですから、注意しないといけません。

神を信じるとは、本質は自分の中にある神性を信じるということです。

ですから、人が作った神を信じるのには細心の注意を払うべきです。

ましてや人が言ったことを、絶対に鵜呑みにしてはいけません。

神を信じるとは人を信じることとは言われますがしかし、鵜呑みにせよという意味ではありません。

 

まとめ

お金以外の価値観はいろいろありますが、結局汎用性のあるものは多くはありません。

好き嫌い、得意苦手、人の役に立つかどうか、神とか人間性あたりですね。

資本主義的な価値観に染まりすぎると、日常の中にある小さな恵みや役立ちを、軽視しがちです。

小鳥のさえずりや、川のせせらぎ、風のなびく音に耳を傾けることも、しなくなりやすいです。

太陽の光や、雨という水の源などの恵みも、忘れがちです。

自己責任とか、私有財産制はある程度いいとは思うのですが。

あまり過剰になりすぎると、社会としてかなり不健全になるかなと。

利益が少し減っただけで、鬼の首を取ったように怒ったり。

寛容さとか寛大さも、失われやすくなってしまいますね。

資本主義的価値観から脱却する人が増えると、よりいい社会になるでしょう。

ただそれは、お金とか効率を無視するという意味ではなく、過剰に重視しないという意味ですけどね。