エフィカシーが究極まで高まるのが神を信じること(信仰)

この世に神が存在するのか、しないのかはわかりません。
ただ、神への信仰という精神作用は、かなりのメリットがありそうだと気づいたので、頭の中から文字起こししてみました。
神を信じることが意外と怪しくないどころか、人生を変えることに役立つ可能性すらあるんです。
精神安定
1つ目のメリットは、精神が安定しやすいことです。
神は常に自分を見ているということは、宗教でもいわれたりしますよね。
日本でも、お天道様が見ていると言われます。
これによって、精神が安定しやすくなります。
これは、人に見えないところで悪いことをしても、神様はお見通しということですね。
逆に言うと、人知れずいいことをしたら、それもちゃんと神様は見ているということです。
そう考えたほうが良いことをできるなら、それだけでも精神的に効果がありますよね。
少なくとも、神を信じず犯罪をするよりかはマシでしょう。
そういう意味では、神の信仰は本人や周りだけでなく、社会全体にとってもメリットなのは、もはや明らかなことでしょう。
そして、自分が悪いことをしても良いことをしても、必ず知っているものが人間の中に1人います。
そう、自分自身です。
神=自分などといわれるのも、自分を見ているのは自分であることから考えると、筋が通っています。
依存していない
実は神の信仰は、意外と依存していません。
この結論あやしいですか?(笑)
他人に依存しない精神のため、安定しやすいんですよ。
じゃぁ神に依存するって、どういうこと?っていう話ですよね。
そもそも、元も子もないですけど、神が存在するかどうかなんてわからないわけです。
だから、依存したくてもできないんですよ。
少なくとも、だれか人間に依存するよりは依存していないってことですね。
「おお神よ、お助けください」
と言っておきつつ、ふつうに日常生活を送るわけです。
あまり依存していないですね。
もちろん、日常生活すらままならないこともあるかもですが、多くの人は神の信仰の代わりに、現実逃避をします。
酷いとドラッグに走ったりしますね。
まだ神を信仰するほうが、依存していない可能性があるレベルです。
精神安定すれば、依存はしません。
精神安定のためには、神を信じてもいいし、あるいは自分で自分を信じるだけでもいいです。
良いことをする自分を信じるわけですね。
純粋に善意であったことが、誰にも認められなかったとしても、自分はそれを認めるんです。
そこに自信を持つわけです。
それが自分の軸にもなり得るものなんですよ。
本質的には同じことだと思いますが、自分を信じられない人は、神を信じるしかないと思います。
なぜなら、人間の誰かを信じようとすると、依存することになるので、かえって精神が不安定になるからです。
それに、他人に洗脳されたり利用されるリスクが高まります。
人間で、完璧な人なんていません。
よって、人を信じるというのはそもそも未完成な行為です。
必ずトラブルが少しは生じることになるでしょう。
もちろんそれも学びであり、経験ですが。
神を信じることは意外と依存してないことは前述しましたが、詳細の記事を以前に書いたので載せておきます。
一方で自分も人も信じられないからといって、鈍感になれば、それは逃げなわけです。
ここは、乗り越えないといけないところです。
もちろん、逃げても構わないし、時には必要なこともあるでしょう。
何にせよ自分のタイミングでいいと思いますが、根本的な解決にならないことは自覚しておいたほうがいいと思うんです。
鈍感だと、他人に共感したり、他人を理解したりすることが難しくなり、トラブルが生じやすくなるでしょうし。
根拠のない自信
神の信仰は、実はエフィカシー向上においてもかなり効果があるかと思います。
いわゆる根拠のない自信が身につくでしょう。
コーチング理論などでは良い人生を送りたい場合、人生のゴールを設定します。
その際に、社会の役に立つことに設定するのが望ましいんです。
ここを、抽象化してみましょう。
社会に役立つこと⇒人類に役立つこと⇒神への奉仕
という図式になります。
なぜ抽象化して「神への奉仕」になるのかというと、神が存在するという前提なら、明らかに人類は神の子だからです。
というか万物が神の子ですね。
人は神から誕生したという説や、神は人類の味方という前提において、人類に役立つことは神も嬉しいわけです。
神に感情があるわかりませんが(笑)
いずれにせよこの状態は、圧倒的にエフィカシーを引き上げます。
なにせ人類どころか、絶対的な神の役に立っているのですから。
人の役に立つことこそが、根拠のない自信の本質です。
これは、自分の軸の形成にもつながっていくでしょう。
よって、神への信仰は、特に潜在意識において自分に自信がない人にとっては、かなり効果がある可能性を含んでいます。
また、人類への奉仕は、神の子への奉仕ですから、神の奉仕にもなり、エフィカシーが上がるわけですね。
ちなみに、神への奉仕というのは、特定の神を意味するものではありません。
意味してもいいですが、創造主とか、神の本質とかそういったものを含意しています。
個体でもなければ全体でもなく、始まりもなければ終わりもない、絶対的なものを想定しています。
縁起
縁起の観点から言っても、神の信仰はかなりの恩恵があります。
縁起は、すべては相対的なものに過ぎないという思想です。
その相対的な関連性は、意識によって大部分が決まるわけです。
同じ単語でも、文脈によって意味が違うなどが挙げられます。
時間は未来からやってくるという認識で、世界の見方が変わるのも1つの例です。
こうして、意識によって認識が変わり、認識こそが世界であるというのが縁起なわけです。
よって、神への信仰という意識状態は、世界の見方がそれ相応のものに変化します。
ただし、健全な信仰ですよあくまで。
テロなんかは、健全ではなくむしろ神や信仰という概念の悪用です。
健全でなければ、それ相応に悪い変化が起きてしまいます。
神への信仰によって、世の中の見方がどう変わるでしょうか?
常にみられているという意識から、悪いことをあまりしなくなるでしょう。
悪いことをして、悪いことをしたと認めたら、謝るでしょう。
誰にも見られてなくても、良いことをする可能性が高まります。
神の信仰によって、自然と謙虚になるでしょう。
果てには、人類皆神の子という認識になるでしょう。
一方で、奴隷になることとも違いますよ。
神を認めるということは、当然に人間は未熟であることを意味します。
なにせ、絶対的なものは神だけということになりますから。
自分も他人も、未熟なんです。
だから、自分の過ちを認めながら、他人の過ちを許す方向に向かいやすくなります。
少なくとも神を信じず、悪いことしてもばれなきゃいいという人間よりは、社会的には良い影響を及ぼすでしょう。
今まで犯罪ばかりしていた人間が、神を信仰し、自分の過ちを認め、人に奉仕をしようという生き方になって、どうして人生が変わらないでしょうか。
神の信仰は抽象度が高いため、パラダイムがけっこう変わりやすいんです。
いずれにしても、そこらへんの意識状態よりは、はるかに精神にいい影響を与えるでしょう。
もちろん、神の信仰の仕方にはいろいろあり、悪影響になってしまうケースもあるかと思います。
ただ、人生に絶望しているような人なら、自暴自棄などになる前に神を信仰してみるのも、1つの手かもしれないという話でした。
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