機会の平等であるために

機会の平等であるために

機会の平等はあるでしょうか?

現実的には、正直なところ、機会はあまり平等ではありませんよね。

不平等な理由

なぜ機会は不平等なのでしょうか。

その理由は、根本的なところが守られていないからです。

例えば、貧乏な人でも(教育などの)機会が平等に与えられている必要があります。

あるいは、一時的に事故や病気などで、社会からドロップアウトした人にも、社会復帰などの機会が平等に与えられるべきです。

仕事をしたことがない人やブランクがある人にも、勉強や練習の機会が与えられるべきです。

 

そのためには、ある最低条件があります。

それはなにか?

生存権の保障です。

生存権が保障されて、初めてあらゆる機会が平等になる可能性が出てきます。

生存の保障

そもそも私たちは、生活のためにやりたくもない仕事をします。

その結果、別のことをする機会が奪われます。

生活が保障されるというのは、とても重要なことです。

衣食住+αに、全労働力人口を集約すれば、余裕で暮らせると思うんですけどね。

まぁこれは、自給自足的な社会になっていくということを、意味するかもしれませんが。

 

教育の機会ももちろん必要ですが、勉強したくなる内容も時期も、人によって異なります。

機会の平等とは、例えばいつでも勉強したいときにできることだと思います。

それは結局本質的には、生存の保障ですよね。

生存が保障されているだけで、私たちは勉強したいことや挑戦したいことができるようになります。

機会の平等とは、要するに生存権の保障なんですよね。

そもそも生存が保障されていないのに、機会の平等なんてあるわけないんですけどね。

ただ、資源や資産の獲得機会を平等にするだけでも、大分生存の保障につながりやすくなるのではないかと思います。

資産の獲得も平等であるべき

私は、自然は自然のものだと思っています。

それを人間が管理するのであれば、そこは人間同士のルールですから、平等にいくべきでしょう。

なぜある人はたくさんの土地など資源を所有し、ある人は住む場所すら持てないのでしょうか。

 

もし人間の社会が不成立なら、誰だってどこにでも住めます。

この世界に数百人しかいなければ、お互いにほとんど出会うことなく、家族だけで過ごすことになるでしょう。

そんな世界では、誰かに占有されて自然を利用できないということはありません。

土地を利用する代わりに、その土地を管理しなければならなくなるということはあるでしょうけど、非常に平等ではないでしょうか。

人数が多い場合は、1人当たりに配られる土地が、かなり制限されるかもしれませんが。

 

機会の平等は、土地などにおいても当てはまるべきではないでしょうか。

私は、資産の獲得という機会も、平等であるべきだと思うんです。

自然のものである土地や資源が、お金をたくさん持っている人だけ多く所有できるのは、不平等としかいいようがありません。

富める者がますます富むだけです。

そうでなければ貧しい者は、住む場所がないどころか、存在すらできなくなります。

自然のものなのですから、本来私たちはどこにいてもいいのです。

 

自然を人間が所有するというのであれば、誰もが最初から部分的に所有できるべきでしょう。

どう考えても。

これが本当の平等ですよ。

そのうえで、資本主義をするのであれば、かなり平等になると思います。

つまり、最初に配られる資産や資源が、ある程度保障されているということです。

これこそが必要な機会だと思います。

 

最初に配った資産や資源があり、そのうえで生存の保障をすればいいです。

まぁ最悪ホームレスしてもらうにしても、その土地にいる限り、誰にも迷惑はかけません。

土地を配られて所有できるだけでも、かなり違います。

ほかの人から種をもらえば、何かを育てられます。

誰かに貸せれば、お金が入ってきます。

川の付近なら水も自分でどうにかできますが、まぁここは水道でもいいでしょう。

 

このような生存の保障をするなら、かなり安上がりです。

あとは寝具や服、食べ物を提供すればいいぐらいでしょうか。

まぁ冬が厳しいので、居住環境はもうちょっと考えねばなりませんが。

このあたりはさておき。

 

本来誰もが、土地の所有権を有しています。

あとから生まれてきた人が、あまりにも不利すぎます。

しかも、相続により、資産が解放されません。

最初に土地などの資産や資源を、ある程度配ることが、本当の平等性でしょう。

これをするだけでも、かなり違ってくるはずです。

まとめ

機会の平等は、最初の機会こそが最も重要なんです。

土地資源など資産の分配も均等にされれば、それを利用して生活はだいぶしやすくなるでしょう。

そして、生存権の保障こそが、現状では機会の平等としての目標です。

社会に参加できる程度に生存が保障されていれば、いつでも経済活動に参加したり、教育を受けられたりできます。

これは、かなり機会が平等になっています。

行政で生活保護を出すにしても、必要な金額は下がるはずです。

 

機会を均等にするには、相続があってはいけません。

これがあるから、富める者は富み、格差が拡大していくわけです。

スタート地点が同じなのが、機会の平等といわれます。

それは、お金持ちの子どもを貧乏にすることではありません(笑)

最初から土地などの分配をすることです。

最低でもここは、必要でしょう。

これがスタート地点です。

生まれの環境を揃えるのは、さすがにムリですからね。

そしてできれば、生存の保障までいくことです。

これにより、機会の平等は大体成立するでしょう。

 

親が金持ちなら、それはそれでその恩恵は受けられます。

ただ、ずっとではなく、相続できるものにかなり限りがあるということですね。

土地などの分配をするためには、所有者が死んだら返してもらったり、1人や1法人当たりの所有に制限をかける必要もあるでしょう。

そのうえで、経済活動をすれば、今よりは健全な社会になると思います。

 

親が金持ちなのは、親が頑張ったからであり、その子どもが恩恵を受けるために、全体の平等性を犠牲にすべきではありません。

マネーゲームとして稼いだお金は、相続してもいいかもですが。

所有している土地などの資産は、相続に極めて強い制限がされるべきです。

一切できなくてもいいぐらいですね。

 

現代のような人間の社会がなければ、精神的にはより自由に生きられたはずです。

もちろん、人の痛みを理解したり、自分の人生と同時に他人の人生も尊重するといった、態度は必要です。

技術が進み物質的にはすごい社会ですが、精神的にはかなり自由を奪われている感じがあります。

私たちは、生存のために仕事をしたり、半ば強制的な勉強により、挑戦する機会に乏しいのです。

でも、生存さえ保障されていれば、常に勉強や挑戦の機会があります。

 

これこそが、健全な社会ではないでしょうか。